この季節、実家の自室で窓を開け放ち過ごしていると、門前の往来を人々の行き来する姿が見え、また窓外を見ていなくとも人が通れば物音がするし、人が通らなくとも風が木々を揺らす音や、雨垂れの音、猫や犬や鳥や虫の鳴き声が聞こえてくる。家中に居ながらも外界との距離が非常に近く感ぜられるのだ。そんな光景を眺め、音に耳を傾けながらぼんやり過ごしていると、僕は東京国立博物館に所蔵されている納涼図(左上参照)を思い出す。
竹で簡単に組まれた屋台骨と、屋根を覆う夕顔の葉々と、地面に敷いた筵。右側に家屋が続いているようなのでテラスと言ったところだろうか。陽差しと雨を避ける以外は吹きさらしの状態で、家族三人がそれぞれに寛いだ様子で一方向を眺めている。その視線の先に何があるのか想像するしかないが、人が転んだとか、牛が水路に落ちたとか、犬がクシャミをしたとかそんな事ではなかろうか。それが何であれ、身近に起こる事象をそのまま体感する事を嗜好しているようなその姿は美しいもので、言うならば画面上部及び左側は、様々な事象が織り成すためのステージのようなものである。
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東京で住んでいたアパートは狭い商店街に面した二階の部屋で、建物の端の部屋であったので窓は二面在ったが、そこから見えるものは隣家や向かいの家の壁や窓であった。斜め上を覗こうとすれば空が見えなくもなかったが、基本として見通しが悪い。しかしそれでも、往来の人通りや隣室や隣家から聞こえる生活の音などは僕の気持ちを和ませるものであった。時折は、聞きたくもないものまで聞かされる事になったりはするが、それはある程度は仕方がない。
そういう感じで、僕は窓を開け放って過ごすのが好きなのだけれど、DVD を観たり本を読んだり何かに集中したい時は窓を閉め切る事はあった。隣家の生活が余りに近いので、さすがに煩わしかったのだ。そのような事をしている時に誰かに話しかけられたりするのが嫌いな僕にとっては耐え難い。
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上京するまでは、僕は田舎の一軒家にしか住んだ事がなくて、団地などの集合住宅での生活に漠然とした憧れを持ってた。同じ棟の中に友達が住んでいたりして楽しそうに思えたのだ。そして上京してからは下町のアパートにずっと住んでいたので、大きな団地ではなかったが、集合住宅での生活に於いては煩わしい事も多い事を知った。
田舎の一軒家住まいでは、家族以外の人間(特に知り合いに)逢う機会は少なく、たまに偶然ばったりと逢ったりすれば何だか嬉しくて立ち話を始めたりするのだが、都会のアパート暮らしでは、顔を合わせる頻度が高いせいか、同じアパートの住人と逢っても時々しか声をかける事はない。相手もそうなのだろうが、面倒かも知れないと思い何となく遠慮してしまうのだ。挨拶すらしようとしない人も居たので、隣人をとにかく煩わしく感じる人が多いのだろう。
単純にそのふたつの環境を比べる訳にはいかないが、どちらも長短あって、いずれかを良しとする気にはなれない。それならば、理想的な人間同士の距離とはどういうのを言うのだろうか。考えてみても思い付かない。それは僕の経験が不足しているからなのかも知れないが、もっとこう、何かないのかなぁと真っ白な夢想をしてしまうのである。
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住環境に於いての細かい諸条件を比較するとかそういう検証はせずに、まとまりのない事をグダグダと書いてしまったが、どのような場所に居ても、自分がもっと心地良く過ごすにはどうしたら良いのかをつい考えてしまうという習慣が僕にはあるので、これもその一環でしかない。因みにインターネットの普及は、いずれの環境に於いても悪条件を緩和しているように思う。
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