前回の話の続きのようなもの。
冷静な頭で考えるならば異常としか思えないあの状態を、今でも僕はたまに思い出す。弁護したい訳ではないが、もしかするとあの時のあの場では「殺せ」というのは自分達の興奮を表す最も強い言葉であったのかも知れない。勿論そこには攻撃性が多分に含まれるのだが、語彙が少なく適当な言葉を知らなかったのだろう。先日ネット上で見かけた記事では、日本に留学している或る中国人男性が「日本語には相手を罵倒する言葉が少なくて困った」という話を本国に帰った時にしていたそうだ。言われればそんな気もする。そうたくさんは思い浮かばない。直接的な言葉ではなく、遠回しな当てこすりや皮肉は多い気はする。だからこそ、強く怒りを感じたり怯えていたりする場合に、いきなり「死ね」とか「殺す」とか言ってしまうのだろう。その点に関して言えば貧しい文化である。自分の感情に対して適切な表現を出来ないのだから、幼稚だとも言えるかも知れない。
そういうのとは別に、ネット上では本来とは違う意味でカジュアルに「死ね」という言葉が使われている。僕の知る限りでは、だいたい15年くらい前からだろうか。本来の意味で使っている場合もあるかも知れないが、「鬱陶しい」とか「腹立たしい」という意味であったり、或いは単に発言者のボケに対応するツッコミ的な意味合いであったりする場合が多いように思われる。こうなると字面では判別出来ないので、その会話の流れを読むしかないのだが、それにしたってその思考に慣れた人でないと解らないだろう。それに会話している人達の間の関係性も重要な要素で、悪態が許される場合とそうでない場合が在るだろうし、または悪態を冗談と取ってくれる間柄とそうでない間柄もあるだろう。時折だが「氏ね」や「師ね」という当て字のような表現を使う人も居る。それらはタイプミスを面白がってわざと書いているものだと思っていたが、もしかすると冗談である事を悟らせる為であるとか、それほど強い感情は持っていない事を読み取って貰う為に当て字を使っている場合も在るかも知れない。そう考えると、相手に正しく伝える為の工夫だとも思えるが、本末転倒である。
そして更に困った事には、こういった感じの言葉を相手と対面する日常の中で使う人達が出てきた。たぶん僕より10歳くらい下の人達からだろうか。友達同士だったり恋人同士だったりする間柄で「死ね」と言い合っている。今では僕も慣れてしまったが、初めてそれを目撃した時は驚いた。よく言われる「ネット脳」とか「2ちゃんねる脳」とは違う気がする。見た目で判断するのだけれど、そういうのとは別な層であるように見える。表情や語気を伺ってみると、明らかに冗談で言っている場合もあったし、とても冗談で言っているようには見えない場合もあった。もう既に本来の意味は形骸化されていて、変容した意味だけが、しかも狭い範囲だけで通じるニュアンスを持って使われているのかも知れない。となるともう、傍から見て理解出来ようもない。もはや世代間どころか、コミュニティ間でさえ共有されえなくなって来ているような気がする。
言葉の変容や俗語の派生というのは、元在った言葉では表現出来ない要素が出てきたからであろうと思う。しかしそれらが集約されて、感覚を共有出来る言葉として普遍化されるという事は行われないようである。こういうのが地方語化というのだろうか。相手に何かを正確に伝え、そして正確に相手の言い分を受け取るという作業は、感覚を共有出来る言語の習得と、それを使い続ける努力は必要不可欠であると思うのだが、そういう事が習慣として根付いていないのかも知れない。
昔、通勤電車の中で、英語人である白人男性と、日本語人である東洋人女性が口論しているのを見かけた事がある。僕は毎朝、同じ時間の同じ車両に乗るのを習慣としていたので、この二人も毎日ではないがよく見かけていた。僕の記憶では、この二人は相手の母語を理解し、実際に喋ってもいたと思う。しかしこの時の二人は、お互いに自分の母語だけを使って怒気を含んだ不平を述べ主張し続けていた。自分の都合と感情のみに捕らわれた人の姿を、これほどに明確に現した光景を他には見たことがない。言葉の断絶とは大きいものなのだと、この時思った。
March 2, 2013 at 02:21
「ガンつけたな」でケンカするひとも眼にしなくなりました。というか下向いて奴隷のような顔で歩いてるひとが本当に多い。その奴隷の視点をかつての携帯なり、いまのスマホの普及というか支配が強いているようにも思われます。
March 2, 2013 at 14:32
現実や日常に対するのがよほど嫌なんでしょうね。僕も酷く落ち込んでいる時なんかには、気づいたら俯いて歩いている事に気づいたりもしますが、それとはまた少し違う気がします。