昼間暖かった日に、陽が傾くにつれて気温も下がり、少しく肌寒い心持ちにて部屋の中でぼうっとしていると、何やら寂しいような心許ないような気分に陥る事がある。これが精神的に安定している時であれば大した事はないけれども、少々でも不安定だったりすると、前述の感情に加えて焦燥感のようなものまで混ざってくる。そうなると不安定さが増して大変宜しくないので、何か他の事に目を向けて、意識を逸らす必要がある。勿論楽しい事が好ましい。
そんな時はテレビ放送や気に入っている DVD を観るのが良い。その他にも漫画を読むとか、落語やラジオを聴くとか。共に暮らす人があれば話すのも良いし、飼い猫に自分からじゃれついて行くのも良いだろう。調理をして暖かいものを口にするも良いかも知れない。ともかく、独りでぽつねんとしない事である。
今日の夕刻まさに、久しぶりにそんな気分になったので、録画していたテレビ番組を観ていたのだけれど、その番組が「峰不二子という女」であったので薄暗い気分は拭えなかった。仕方が無いのでこの文章を書き始めた訳(途中でスパゲティ作って食べたが)だが、ついでに「逢魔が時」を WEB 検索していてこんなページを見つけた。表現がなかなに的確だったので引用しておく。
一日が終わろうとする夕暮れ時。お豆腐屋さんのラッパが薄暗くなりかけた夕焼け空を流れていく。我を忘れて遊びに全身を打ち込んでいた幼い頃、夕暮れ時はいつも理由もなく物悲しい気分にさせられた。
仲間との別れ。遊びの終焉。明日になれば、また、会えるのだし、遊べるのだけれど、私は心の底で、でもそれは絶対ではない……と感じていたように思う。
毎日巡ってくる、一日のあの時間帯。昼から、夜へ、その橋のような時間。明るくも暗くもないそのぼんやりした感じ。このぼんやりした橋を渡るとき、私はいつもとぼとぼと一人だったように思う。人攫いが出てくるのなら、こういう時だろうなと想像もしたっけ。
そう、逢魔が時には何か終焉が迫っているような気がしてくるのだ。その辺りが焦燥感を生むのだろう。
そう言えば子供の頃、父が時代劇が好きでテレビでよく観ていた。その中で確か「破れ傘奉行」だったと思うが、エンデイングの映像が画面一杯に映された夕陽で、太陽が徐々に地平線へ沈んでいく様を毎週眺めていた。しかし僕はその映像が好きだった訳ではなく、怖くて目を逸らせなかったのだ。沈みゆく太陽がこの世の終わり、というか自分の命の終わりを連想させて、自分が死んだ後は一体どうなるのだろう。僕が死んだ後も他の人達は生きていて、僕だけが真っ暗な宇宙のような何処か別な場所に放り出されて、その時僕はどんな気持ちになるのだろう。言葉でこう認識していたのかは怪しいが、感覚的にそう思っていた。それがとても辛くて、そしてやがてそうなるのであろう事実が怖かった。逢魔が時に感じるのと少し似ている。
何の小説だったか忘れたが「人が死ぬ時に一番怖れるのは、自分という存在とお別れしなければならない事だ」というような事が書かれていた。確かにそれはとても怖い。想像するのも嫌である。霊や輪廻の考えは、もしかするとその恐怖から逃れる為に生まれたのかも知れない、と僕は思っている。
May 13, 2012 at 08:34
『燃えよ剣』の終盤で五稜郭の土方歳三がまさに自身の終盤にむかうページで、お坊さんは毎日しずむ夕陽をながめながら、さびしさにうちかつ日想観という修行をおこなっていたという記述がありました。
さしずめマーラーとブルックナーのともに弟9番終楽章の冒頭にあらわれる弦楽合奏(これはマーラーが師ブルックナーをユダヤ人根性でぱくったとしかおもえないんですが)がそんな落日をあらわしているようにおもわれます。
http://www.youtube.com/watch?v=uzqC9WMxztw&feature=fvst
http://www.youtube.com/watch?v=XqNXhmmiaoo&feature=fvst
ただしぼく自身は夕陽に甘美さ以上のせつなさやさびしさを感じたこともなく、はやく死にたい死にたいとおもいつづけてきたほうなので、死がこわいという気持ちも文字どおり一生感じることはなく、うすうすわかっておりますが、「生」に全的にコミットすることなく死んでゆくともおもわれます。
こんにちの量子宇宙論によると、宇宙は140億年まえにいかなる物理的観測も無効になるミクロの特異点から爆発的に誕生したとのことですが、たったの140億年まえ? おそらく物質的にも意識上でも、われわれはそれ以前から存在していたにまちがいなく、あと50億年後に太陽は炭素にばけてしまうそうですから、そのあとに地球が命脈をたもつということはないにせよ、われわれはこの宇宙で存在というカルマ=循環からのがれることは永劫にできないとかんがえると、それこそ絶望的で、ぼくなんぞはまいってしまいます。
ぼく1個の生=所有という観念がうすいので、おそらくはこの記事になんら助言をくわえることもできないありさまでした。すみません…
May 13, 2012 at 22:17
これはもう丸パクりですな。日想観についてはまた後日調べるとして。
上で音楽を挙げなかったのは、非常に限定されると思っているからです。優秀な古典音楽か若しくは極一部のジャズなどの器楽曲に限られます。基本、歌が入ると駄目ですね。オペラは良いのですが、しかしこれは僕が言語を理解していないからでしょう。音楽となると、本当に美しいものでなければ意識を引き上げてはくれません。逢魔が時ではありませんが、僕は昔病んでいた時期にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を毎日聴いていました。
一個としての生に拘りがない事は小説を読んでいれば判るのですが、分子レヴェルで己の存在が残るのにも我慢がならないのですね。僕には俄には想像し難いのですが、今大変酔っています。後日何らかの返答をするかも知れません。悪しからず。
May 17, 2012 at 19:53
今週末の休日はここをさらに深化した
一文をぜひお書きください。
May 22, 2012 at 22:38
週末はなーんにも書けませんでした。気分ではなかったのです。
ところで、分子レヴェルで己の存在が残る事に我慢がならないのは、死後に己の意識が残ると考えているからなんでしょうか。
May 23, 2012 at 20:16
いやいや購読料をお支払しているわけではないので、あつかましくも無理にとは申しませんwwww
『生命とは何か』というシュレェディンガーの著書を熟読しております。とぼしい知識でふりおとされないように、1ページ1ページ必死でしがみついている感じです… いまは人間の思考という秩序だったものが、いかにして無秩序な原子という最小の物質の集積によってかたちづくられるかを天才が論じてるところです。すなわち意識なり思考なり感情なりは物質であると…
それとはべつに死後に火葬されたって〝無〟に帰すわけではなくて(まあ「私」という五感でとらえた世界は無に帰すと感じるでしょうけど)、火葬されても土葬されても、ある一定量の原子(量子)に分解されるだけで、それらはふたたび再結合して、なんらかのマクロな物質として世界に早晩かえりざくでしょう… つまり修行をつめば存在=カルマから解脱できるという仏陀の真理のおしえは、いつまでたっても天上のとびらをひらいてくれないということになります。
ちかごろamebaである数学者=詩人から貪欲に吸収しているのですが、ひとの五感がとらえる世界などというものを真実とかんがえているから、いわばな小窓からのぞく感情や絶望やよろこびの世界がすべてだとかんがえているから、けっきょくのところ一喜一憂しながら漫画チックなモラルの人生をおえてゆくのではないかと… 五感をこえたところからながめたとき、なにか死後にふとやってくるような気がするのですが、われわれが無と感じたところに恐るべき有があって、われわれの無意識と意識とのあいだに橋がわたされてて、いわばシックスセンスと4次元のよけいにおそるべき「世界」がはじまるのではないかと、絶望しきりです。
May 24, 2012 at 21:08
昔、中学生くらいの頃にNHKスペシャルか何かで「人間の思考は電子であり、その電子が脳内のシノプシスを巡って、人間は思考される」というような事をやっていて、その当時はまだ仮説という前提で説明されていました。そして気付けば今や(勿論詳しくはないので朧気な印象ですが)それは定説となっており、人の認識というものが如何に儚いものであるかを思い知りました。
マクロ物質がどれだけの情報をどのように有しているかは判りませんが、己の意識が使役する肉体を持たない状態で、思念だけが浮遊するという状態は確かに嫌な感じがしますね。
昔読んだ本宮ひろ志の漫画(タイトルは失念)で、殺され引き千切られ、肉片となってもまだ意識が残っているという場面が在ったのを思い出しました。
それはとは別に、銀河鉄道999の映画版で、惑星メーテルの骨格となる人間で作られた部品達が、惑星の崩壊と共に叫び出す場面も思い起こします。
そう考えてみると、思念のみの存在となったものが霊であり、再び肉体を欲するのが輪廻という考えであるような気がして来ますね。