先週から NHK 連続テレビ小説「カーネーション」では、糸子が70を超えた晩年を迎えている。その中で、かつて親しかった人達の遺影を眺め、子供達が皆遠くへ行ってしまって独りになった事に思いを馳せる場面があった。何故こんな風になってしまったのだろう、と。さらりと流して描かれていたし、その後も繰り返す事はなかった。その辺りを余り強調したくなかったのだろう。僕はその場面を観て、リリー・フランキーの「東京タワー」の中で、主人公の二人の祖母の晩年に関する記述を思い出した。
筑豊のばあちゃんは相変わらずひとりで、黄色くなったジャーの中の御飯を食べていた。家の中には線香とサロンパスの匂いは充満していて、その匂いを嗅ぐたびに、なにか淋しい気分になっていた。膝を悪くして、和式トイレの便器の上には、簡易様式トイレの便座が置かれてあった。
家財道具、自分の身体はどんどん古くなり、くたびれてゆく中で、毎日、日めくりのカレンダーだけが新しくめくられている。
誰も居なくなった家で、黄色くなった御飯を食べながら、心臓病の薬を飲み、映りの悪くなったテレビを観ている。ばあちゃんにとって、一日のどんな時が楽しいのだろう? 人生の何が楽しみなのだろう? どうあれば幸福を感じ、なにが起きれば悲しむのだろうか?(中略)
小倉のばあちゃんも同じように、誰も居なくなった我が家にひとりで住んでいる。子供たち、孫たちは、それぞれに新しいことが連続する毎日の中で、息つく暇もないほどに動き回っている。ばあちゃんたちはそれとは逆に、毎日同じ風景と残像の中で、ただ息をつき、日めくりだけが新しくめくれてゆく。
(中略)
結局、廃れてしまう、寂れてしまう、離れてしまう、誰もいなくなってしまう。
出版当時に、氏が出演していたラジオ番組の中でも、何かのイベント時に収録したのだであろう、読者の声がインタビューされていた。「感動しました」「泣けました」「母親を大事にしようと思いました」等々、宣伝目的なので当たり前だが、そのような陳腐極まりない言葉が繰り返し流れた。久世光彦はこの小説を指して「ひらかなで書かれた聖書だ」と宣われたらしい。その言葉からしても、この小説は単なる母の子へ対する愛情の物語ではないと思っているのだが、それ以外の感想を目耳にした事がない。この本は人生に対する諦念と、人の愚かしさと、その中で生きて行かねばならぬ覚悟を描いているのだと僕は思っている。
若くして死んでしまうのでもなければ、我々は老境を過ごさなくてはならない。肉体と精神の老い、そして社会的に朽ちていく事に耐えねばならない。それでも、そんな苦痛を背負いながらも生きようとしてしまう。40を超えると初老と呼ばれるが、衰えなどはとっくの昔に始まっている。先は長いのか短いのか判らないが、楽な事はなさそうだ。どえらい所に立たされたものだ、と思う。
原作を読んでないし実際の経歴も知らないのだが、ドラマの中では、糸子は晩年になって過酷なプレタポルテ業を始める決意をする。それはもしかすると、老境での孤独に立ち向かおうとしているのかも知れないと僕は思っている。
March 17, 2012 at 20:18
話はかわりますが、きのうYouTubeで30歳をすぎた横山剣さんが、グラサンもない素顔でつぶらな瞳をきらきらさせながら、ZAZOUというバンドのクリスマスソングをうたうのをはじめて観ましたが、へたくそなんですよ、歌がwwww
「苦節何年」なんてCKBを指していいますが、ぼくには逆に剣さんがあの歌とルックスの妙味にたどりついたスピードのほうが逆に驚異ですし、あゝこのひとたちは40歳をすぎてパワー全開になるように運命の女神がプログラミングしてたんだと… ほんとにおもいました。
枯れるだけじゃありません。
40歳50歳をすぎたときに人間とつぜん自分の真価を発揮するステージがおとずれるやもしれず、そのとき幸運から逆に車に跳ね飛ばされるような衝撃をうけて、たちあがれないなんていう不様におちいらないように、あるいは幸運を幸運として認識できないくらい「枯れない」ように ― ふだんから自分につごうがいい妄想でほくそえんでいたいものです。
March 17, 2012 at 21:33
それは小野瀬氏の愛称ですね。
そんな剣さんは観た事ないですなー。観たのは全て売れてからの剣さんです。クールスのローディーだった頃はいろいろ大変だったようです。誰かが履いていたブーツに注がれた酒を無理矢理呑まされて、それ依頼酒が呑めなくなったとか。
妄想は大事ですな。しかし近頃はその妄想力の衰えすら感じております。何かこう、全ての事情を取っ払った感じでの思考がなかなか出来なくなって来ました。
March 17, 2012 at 21:47
http://www.youtube.com/watch?v=QselwQEO8m0
http://www.youtube.com/watch?v=ooDzd-eNNDo
このころから「イーネ」といっておりますよ。
すべての事情をとっぱらった思想… おそらく間食できないのに、じのん氏とともに二郎のフィールドにのぞんでみるとか、ぼくも最近いかに頭では想定がついて、くだらないとも、むごたらしくとも予想がつきながらも、「未経験」なものを現実で経験するしかリフレッシュははかれないと考えております。
March 17, 2012 at 22:51
これは確かに下手・・・。現在の横山氏が基準になってしまっているせいか、この頃では「それを歌うにはまだ早い!」と思ってしまいます。
その台詞は、正確を期すならば「ィーネ!」が正しいと思います。これは、聞くところに拠れば、横山氏の叔父さんの口癖らしいです。
此処でじのんさんの名前が出てくると、何だか不思議な感じがしますな。「未経験なものを経験する」かぁ。お察しかも知れませんが、僕は割と保守的なんですよね。特に食べ物に関しては。そうするには何かしら勢いをつけないと・・・。