以前にも少しだけ書いたけど、近所のカクヤスでバイトしている丁稚君の話。長い間見かけていなかったのだが二月ほど前に一時的に復活した。恐らく長期の休みを利用してバイトしているのだろう。丁稚君は坊主頭から少しだけ髪の毛が伸び、部活引退後の野球部員のような中途半端にフサフサな頭をしていた。相変わらず不慣れな感じでぎくしゃくと、しかし元気一杯に動き廻っている姿を見ていると心なしか気分が和む。しかしそんな気分も店内の有線放送からハイロウズの「サンダーロード」が流れ始めた時に消し飛んだ。何故かしら僕の頭の中では、丁稚君とハイロウズという組み合わせが予め設定された役柄のようにバチコーンとマッチしたのである。ヒロトだ、甲本ヒロトがそこに居る。姿形は全く違うが、朴訥とした感じが似ている気がする。僕は心の中で唸った。これまで丁稚君の属性というか背景というものに何の感心もなかったのだけれど、これほどまでにパンクバンドが似合うとは思いもよらなかった。彼はきっとバンドを組んでいる。もしくはこれから組む予定のはずだ。僕の頭の中では目眩く妄想が繰り広げられた。

 ★

 彼はきっと幼い頃から憧れていたプロ野球選手になるべく、中学に上がってすぐに野球部に入部しただろう。しかし身体が小さく運動能力もさして高くないどころか結構低い、つまりドンくさい彼は三年間の地道な努力も報われず、結局最期まで補欠であった。中学三年の夏、夏の大会のレギュラー選出に洩れた彼は、予てから夢見ていた世界が脆くもガラス細工のように崩れていくような感覚を覚えた。思い描いていた自分自身の姿に成れなかった自分。その事実を受け容れ難くもがき苦しんだが、もうどうしようもなかった。人生初めての大きな挫折である。しかし、それでも根が真面目な彼は、夏の大会を裏方としてこれまた地道にサポートし、そして大会終了と共に彼の野球人生は終わった。

 –

 秋頃の彼は老人のようであった。日々を生きる目的を失い、呆然として毎日を過ごしていた。授業が終わればそのまま帰ってしまえばいいものを、いつまでも放課後の教室に残り、かと言って誰かと馬鹿話をする訳でもなく、ただぼんやりと紅く染まり始めた雲を眺めたりしていた。そして彼の役割として、突然背後からクラスメートの誰かから頭を叩かれたりするのだが、それも彼にはどうでも良い事だった。諦念。何事も諦めが肝心で、自分はそうして生きていくしかないのだ。そう考えては、夕陽に紅く染めた頬に涙を流す事さえあった。

 そんな或る日の夜の事。彼は自宅の居間に寝っ転がり鼻をほじりながら何となくテレビを眺めていた。ケーブルテレビのミュージック・チャンネル。音楽にはさして感心が持てず、これまでにCDを買った事など一度もない彼であったが、2歳下の妹が部屋で聴いている音楽くらいは一応耳にしていた。そしてこの番組も妹の希望で契約に組み込まれているもので、今も妹はサラダ一番をポリポリと囓りながらエグザイルのPVを食い入るように観ている。なんかなあ、なんかなんだよなあ。恋とか愛とか愛とか恋とか歌われてもピンと来ないんだよなあ。それに何だ、この人数の多さは。彼は相変わらず鼻をほじりながらぼんやりとそう思っていた。右の鼻の穴をほじり終えると、今度は左の鼻の穴をほじった。

「ちょっとタカシぃ」

 彼は妹から呼び捨てにされている。身長の差がないからだろうか。それにしても、と彼は考える。その最期の「シぃ」の部分の「い」の発音に若干の「う」が混ざったような妙な言葉遣いはどうにかならないのか。自分は勿論大っ嫌いだが、冷静に考えても世界中の人間はそれを嫌うんじゃないだろうか。彼はこれまで何度も注意しようかと考えたが、既に妹は彼の言う事に耳を貸す事などなくなっており、それどころかその事が妹の機嫌を損なうと色々面倒なので、結局何も言わないでいた。

「なに」

「そんなとこで鼻ほじんじゃねえよ。気持ち悪いんだよ」

 どう、この言い草。一体何様のつもりなんだろうか。彼は鼻をほじる手を休めずそう考える。いちいち突っかかるような言い方しやがって。そんな風に他人を乱暴に扱えば、他人からも同じように乱暴に扱われてしまうというのがどうして解らないんだこのクソ女。そう言いたかったが、実のところ彼の妹は結構モテているらしい。中学一年にして既にギャル化が始まっており、自分の僅かながらの資産と親にねだった資金を使ってキラキラと着飾り始めた妹は、周囲の男どもの感心を惹きつける事にやっきになっていて、事実それが成功している。その事がどうしても納得がいかず彼は苛立った。

「うっせーな、オレの勝手だろ」

「勝手じゃねーよ気持ち悪いってんだよ、死ね!」

 ちょうどエグザイルのPVが終わり場面が切り替わるところだった。サラダ一番の大袋を丸ごと投げつけられ、更に太腿に蹴りを入れられた瞬間、テレビの画面には目を剥いて絶叫する男の顔が大写しになった。どこかの会場でのライブ映像のようであった。絶叫していた男は、ステージの上を忙しく動き回り、ぴょんぴょん撥ねて妙にはっきりと聞こえる日本語で歌っていた。彼はその男に釘付けになった。ひどく痩せていて虚弱そうに見えるその男は、全身から汗を吹き出しながら懸命に叫び歌っていた。

「なにこれ。うざ」

 そう吐き捨ててチャンネルを変えようとする妹に、彼は飛びかかりリモコンを奪った。

「何すんだよこのキチガイ!」

「うるっせーな!オマエが出てけ!」

 顔を真っ赤にして震えている妹を尻目に、というかそちらを見ようともせずに彼はテレビ画面に齧り付いた。テレビの中の男は歌い続けていた。叫び続けていた。前へ前へ。外へ外へ。独りである事を誇らしげに口ずさんでいた。彼はいつの間にかテレビに向かって「これだ。これだ」と嘆きながら、心の中で強く強く「この人みたいになりたい」と思っていた。

 –

 彼は考えた。朝ご飯を食べている時も、授業中も。弁当を食べている時も。通学路の川縁を歩いている時も。晩ご飯を食べている時も。風呂に浸かっている時も。布団の中でも真っ暗な天井を見つめながら。あんな風になるには一体どうしたらいいのか。とにかくバンドを組めば良いような気がする。でもどうやって。彼はこれまで考えた事もなかった種類の欲求が突然自分の中に生まれた事に心底驚き、そういう自分自身を持て余していた。

 一週間の間、彼は散々考え抜いた挙げ句にようやく落ち着いた。どう考えても一足飛びにあのような輝きを持つ人間に自分が成れるはずはない。取り敢えず自分の出来る事からこつこつとやっていくしかない。そう思いついた彼は、居ても立っても居られずにそれまで自分の知らなかった世界を知るべく情報収集に奔走し始めた。TSUTAYAでハイロウズのCDを片っ端からレンタルし、妹が留守している間に彼女が所有しているミニコンポでMDに落とし、ジャージでも買おうと溜めていたお年玉を使って一番安いポータブルのMDプレイヤーでそれを繰り返し聴いた。聴けば聴くほど好きになった。このバンドの一員になりたい、更にいうならこの音そのものになりたい。彼の欲求はエスカレートするばかりであったが、それが衝動だけでどうにか出来る訳ではない事も解っていた。
 彼は歌いたかったが、演奏してくれるバンドは居ない。カラオケなんかじゃどうしようもないし、観てくれる人もいない。とにかく音を出したかった。音楽の一部になりたかった。彼は取り合えず、バンドと言えないまでも音を出せる最小単位を目指した。自分でギターを弾いて自分で歌う。今のところはそれしかないように思えた。
 そう決めてしまうと、今度はギターの事ばかりが彼の頭の中を占めるようになった。カッコ良さでいうならやはりエレキギターが欲しいのだけれど、独りでやるならフォークギターにした方が良いのだろうか。だいいちエレキギターを弾きながら独りで歌ってる人なんて見た事がないし。とにかく、ギターを手に入れる事だけは決めた。手に入れるには金が要る。勿論彼はそんな持ち合わせはない。

 バイトしなきゃなあ。何処で働こうか。自宅から近くて、夕方から夜にかけて出来るようなバイト。やっぱりコンビニか。彼は放課後、自転車に乗って近所を徘徊しはじめた。バイト先を探すためだ。近所には幾つかのコンビニが在って、そのどれもがバイトを募集していた。しかし深夜の枠でなければ大した時給は貰えず、それだとギターを買えるのが随分先の事になってしまう。出来るだけ早くにギターを手にしたい彼は他の業種を探そうと考えた。そうして線路脇の道をふらふらと自転車を漕いでいる時、店先に掲げられたバイト募集の広告を見つけた。酒のディスカウントショップだった。時給もなかなか良い。レジ打ちだけでなく、重い酒瓶の棚卸しや配達があるからそれだけ高いのだろう。彼はバイクの免許を持ってはいなかったが、それでも雇ってくれればと少し迷った後、店の中に足を踏み入れた。

 ★

 と、こんな事情で丁稚君はバイトしているんじゃないかな。たぶん。