大学院生のころだったと思う。天神の西鉄名店街の古書展で仮綴じの薄い小さい和本を二冊買った。私が古書展で掘り出し物らしい本を買ったのは、後にも先にもこれきりだったような気がする。
 そのうちの一冊が「筑紫富士夢物語」という題で、其鹿・菊左・濯綏という三人の俳人の旅をつづった、一八五〇年(嘉永三年)の紀行文だった。作者について詳しいことはわからない。
 三人の俳人は佐賀の人で、太宰府天満宮へ参詣するのが目的である。しかし、この短い紀行文の中で、作者が筆を多くさいているのは、博多の柳町のことである。
 彼らは虹の松原から、吉井、前原、今宿を通って博多に近づいてくる。「福岡を通り、博多綱場丁紅屋嘉二郎の旅宿に泊まり、夕食など仕舞ふて、市内見物と出掛」と、ここでも福岡と博多は区別されている。そして三人は、今の石堂大橋近くにさしかかるのだが、そこで大宰府に行くのとは違った道へ進んで行く。
「そこここと見廻り(此所より声をひくふして)石堂橋の近辺に至る。大宰府の道は右通りなるに、不意に左をさして三人、飛て行」
 三人は「名に逢、柳町」の遊里に行くのである。かっこでくくった部分には二行書きにして小さく書いてある。こんな書き方をするのだから、遊女屋に行くことにうしろめたい気持ちはあるのであろう。私にしても売春ということについては、さまざまに複雑な思いがある。ただ、江戸時代の遊里が、単に性のはけぐちとしてのみのものではなく、しばしば豊かな文化の土壌ともなっていたことは見逃せない。
 その頂点が江戸の吉原だが、地方においても、前に引いた佐藤元海の紀行文が福岡の繁栄を記すのに「娼家もあり」と言っているように、地方においては遊里の華やかさが、土地の活気や洗練を示す一つの基準ともなっていたのである。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.115-116