「検閲」について考えるなら、この点はいっそうはっきりする。日本的空間の検閲者は、表現の象徴的な価値には概して無関心のようだ。性器がまるごと描かれるようなことさえなければ、どのような冒瀆的な画像であろうと公表できる。しかし西欧的空間においては、図像はその象徴的な価値に応じて検閲される。性器が映るか否かといったトリヴィアルな問題ではなく、ともかく図像における冒瀆的あるいは倒錯的な要素が厳しい注目に曝されるのだ。
(中略)
この対比からまず指摘しうることは、次のことだ。西欧的空間における図像表現は「象徴的去勢」を被るが、日本的空間においてはせいぜい「想像的去勢」しか存在しないということである。たとえて言えば、西欧的空間ではペニスを象徴するあらゆる図像が検閲されるが、日本的空間においてはペニスそのものさえ描かなければ、何をどのように描いてもよい。私はそうした皮肉な意味で、日本のメディアはもっとも表現の自由に開かれていると考える。そして問題は、むしろこの「自由」のほうにあるのではないか。
日本的空間においては、虚構それ自体の自律したリアリティが認められる。さきにも触れたように、西欧的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。さまざまな禁忌は、その優位性を確保し、維持するために持ち込まれる。例えば性的倒錯を図像として描くことは認められない。虚構は現実よりリアルであってはならないからだ。そのためには、虚構があまり魅力的になりすぎないように、慎重に去勢しておく必要がある。それがさきに述べた「象徴的去勢」ということだ。
斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.300-302
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