一人の勝者もいない戦場で、ひたすら敗走を続ける若者たち。私はそんなイメージを抱いてしまうが、いささかロマンチックすぎるだろうか。しかしどうしても疑問は残る。彼らが事実関係のいかんにかかわらず「負け」のイメージに固執するのは、いったいなぜなのか。そこにどんな「メリット」があるというのだろうか。
 現時点での、私の推測はこうだ。彼らは、負けたと思いこむことにおいて、自らのプライドを温存しているのではないだろうか。現状の自分を肯定する身振り、すなわち自信を持って自己主張することは、批判のリスクにまっさきにさらされてしまう。むしろ現状を否定することで、より高い理念の側にプライドを確保することが、彼らが「正気」でいられる唯一の手段なのではないか。その意味では、「負けたと思いこむ」こともまた、ナルシシズムの産物なのだ。「負けていない」と否認することによって、自らの「正気」すら手放してしまうのではないかという恐れが、彼らをして「負け」に固執させてしまう。この、あまり過去にも他国にも例のない自己愛の形式を、かりに「自称的自己愛」と呼ぶことにしたい。
「『負けた』教の信者」とは、まさにこの「自称的自己愛」にしかすがることのできない若者たちのことを指している。その信仰はあまりに堅牢であり、説得によってくつがえすことはきわめて難しい。まして彼らに、「まだ負けじゃない」「自傷みたいだから良くない」「そういうのはナルシシズムだ」などとお説教したところで、なんにもならない。抽象的な言い方になってしまうが、愛に関わる苦しみは、愛によってしか救えない。彼らを愛することは難しいかもしれない。しかしわれわれは「羨望」を含む自らのいびつな愛の形を理解し、まずは彼らをいかに愛しうるか、その作法をこそ考えるべきではないか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.20-21