儒教の経書の一つである『書経』の洪範(天下を治める大法)の中に、人生の幸福についての五項目すなわち「五福」が掲げられている。
それによれば、第一が長寿、第二が富、第三が健康と心の安寧、第四が徳を好むこと、第五が天寿をまっとうすることである。
徳とは、もちろん儒教でいう徳のことで、人倫を基調とするものである。徳を好むことを幸福の一つとしたのは、儒教の人生観、社会観、世界観に基づくものであることはいうまでもない。
五福において長寿を第一としたのは何故か。
それは長寿であってこそ、もろもろの幸福を享受することができると考えたからである。例えば、知らないことも知ることができ、不可能なことを可能にすることができ、学問も進み、知識も深まるから、長生きしなければならないという。こういうことが、儒教が理想とするところであった。
洪範には、また「六極」を掲げて、六つの不幸を述べている。
それによれば、第一は凶害に遭って若くして死ぬこと、第二は病気にかかること、第三は心に憂患があること、第四は貧苦であること、第五は剛強に過ぎて禍を招くこと、第六は柔弱に過ぎて辱めを受けること、としている。
儒教では、老人の養生説も一般の養生説も、すべてこのような観点から論ぜられたのである。
中国の思想史を大観すると、その思想は三つの系列に分類することができる。
第一は、道徳的人間性を基調とする理想主義で、儒教がこれに属する。第二は、功利的人間性を基調とする現実主義で、法家、兵家、外交家がこれに属する。第三は、宗教的人間性を基調とする超越主義で、道教がこれに属する。仏教もこれに属するといってよい。
理想主義に立つ儒教は、道徳的人間性を根本とするから、人と我とをもって道徳一心とする万物一体思想を基調とするので、個人の人生をまっとうすることと、人々の人生をまっとうすることとを不可離の関係にあるものとする。その結果、修身と経世済民とを一体とし、真の修身は経世済民をまって成就し、真の経世済民は修身を本として完成せられるとした。
もちろん人格の形成は、人倫を基調とするものであったことはいうまでもないが、そのためには天与の生命をまっとうすることが不可欠であると考えられたのである。だから儒教において養生訓が説かれるようになったのは当然であろう。
また、超越主義に立つ道教や仏教は、宗教的人間性を基調とするが、それは人生は欲念のために苦悩することを免れ得ないとする宿命観、超越的な絶対者に帰依してそれを解脱し、それによって永遠の生命を得ようとした。そのためにまた養生訓が説かれるようになったのである。
要するに養生訓は、古今にわたって中国の思想界を支配した理想主義に立つ儒教と超越主義に立つ道教、または仏教において説かれるようになったのである。
朝日新聞福岡本部編『博多町人と学者の森〜はかた学6〜』葦書房 1996年 pp.79-81
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