家から歩いて五、六分のところに、ピンクと茶色がまざったようなペンキを塗った新しい家が建った。住宅地の外れで、「鈴木病院」という小さな看板が出て病院ができた。
 昔からその町に住んでいる人は、鈴木病院のお医者さんを子供の時から知っていた。
「ガキのころは、鼻たらしてヨウ、ポケッとしておったわさ」
「双子だだよ、二人とも鼻たらしてさあ、どっちだかわかんないけど似たようなもんだ」
 出身校の私立の医大は、
「鈴木先生が入った学校だもん、たいしたことねーずらよ」と学校のランクまで評価した。私はその前を毎日通って学校へ行ったが、いつもしんとしていて、看板のかかっている玄関から人が出入りするのを見たことはなかった。
 医者の姿も見たことがなかった。
 そして、鈴木先生が父の最期を看取った。

 父は、ただただやせてゆき、原因がわからないまま、いろいろな病院を回り、最期には上京して東大病院に入院し、もしかしたらガンかもしれないからと試験開腹というのまでやった。お腹を開いてもガンはみつからず、また腹を縫い合わせた。
 一日一度回診する教授は、天皇のように尊大で、そのあとをゾロゾロと沢山の白衣の若い医者がくっついて歩き、一分もベッドの側に立っていなかった。
 父は手術の前の日、三四郎池に母を誘った。母は、学生だった父と散歩したところに結婚して十七年目にさそわれて、父は手術をしても無駄だと覚悟しているのだと考えた。手術は父を衰弱させただけだった。
 家に帰って来て、父は鈴木先生のところに下駄をはいてヒョロヒョロ出かけていった。私は薬を取りにゆき初めて鈴木先生を見た。先生はまだ若くて、背の高くない色白でポッチャリした人だった。
 患者は誰もいなかった。薬は先生が自分で袋に入れた。
「ビタミン剤だからね、お父さんにそう言ってね」
 母は薬の袋を見てため息をついたけど、下駄をはいてヒョロヒョロと出かけてゆく父を止めはしなかった。
「えらく正直な医者だな。腕組んで、わからないなあ、わからないなあといいやがる」
 大学病院で見放された患者がヒョロヒョロ歩いてやってきて、鈴木先生は困っただろうと思う。父は先生よりずっと年上で、誰にでも一種の畏れを持たせてしまう雰囲気があった。
「変わった医者だな。『内科全書』というのを持ってきて、僕はもしかしてこれじゃあないかと思うけど、佐野先生はどう思われますかと俺にききやがった」
 鈴木先生が見つけたのは、進行性筋萎縮症という病名だった。
 体の末端がしびれてきて、舌の感覚がなくなってきていた。手を開くとそのままもとにもどらなくなり、父はもう一方の手でまた折り返していた。私達はそれをじっと見ていた。
 先生は往診にくるようになった。
「この薬は劇薬で、しびれを直しますが、食欲がなくなります。どうしますか。それでもいいですか」
 父は同意した。キニーネという薬を先生は持ってきた。
 父は律儀に先生の薬を飲んだ。
 先生は、玄関に入ってくる時から全身、一生懸命だった。ハッハッと息を荒げて玄関に入ってきた。
 父はやせたあばら骨をひろげ、先生は真っ赤な顔をかたむけて、父のあばら骨に聴診器をあてた。あんなに胸に近く顔を近づけて聴診器をあてた医者を、私は見たことがない。父はヒョロヒョロと起き上がり、「飯でも食っていかないですか」と茶の間にふらつきながらやってきた。
 先生はこたつにかしこまって入り、父は非常に機嫌がよかった。
 機嫌がよくてもほとんど食欲がなかった。
「医者は外科にみんななりたがるんです。僕も外科になりたかったんです。手術の時、眼鏡がくもるんです。僕が糸を結ぶのを見ていて、教授が “鈴木君、外科はやめた方がいいねぇ“ と言いましてねぇ」
 先生のまるまっこい手がどんなに一生懸命糸を結ぼうとしていたか目に見えるようだった。そうして、二年間、鈴木先生は毎週二回ハッハッと玄関を入ってきた。そしてブトウ糖だけ打っていった。
 父は誰かれかまわず毒舌をはいた人だったが、鈴木先生にはていねいな敬語を使い、私が顔中しつこい吹出物が出ているのを見て、「先生のところに行って薬をもらってこい」と言った。
 誰もいない明るい診察室で先生は白いぬり薬をくれ、「あんた、変わっているねェ」と玄関で靴のひもを結んでいる私の横にしゃがんで言った。
 私の吹出物は全然直らなかった。
「やぶ医者だからもう行かない」
 父はただ笑っていた。

 父はほとんど起きられなくなり、昏睡するようになった。弟が自転車で先生を呼びに行った。往診かばんを弟の背中と自分のお腹にはさんで弟の胴に手を回して自転車の荷台にのってやってきた先生は、自転車が止まる前にかばんをつかんでとびおりた。
「ご親戚の方をお呼びして下さい」と先生は母に言い、それからずっと父の側に座っていた。そのまま先生は病院に帰らなかった。
 せまい茶の間にあふれているご親戚の中で先生はじっとかしこまり、時々お茶をのんで何も言わなかった。
 笛のような音を出して最後の息を吸い込んで父は死んだ。
 大晦日の夜中で、もう元旦になっていた。
 父の腕を右手で握りつづけていた先生は、「三時十三分です」と言い、左手で眼鏡をとると左腕を目にあてて泣いた。

 父が死んで二十五年たつ。
 父は、またとない医師を得て死んだと思う。

佐野洋子著『ラブ・イズ・ザ・ベスト』新潮文庫 1996年 pp.44-49