名のついている小さな花は草ではない。たとえすみれが散ったあとの葉っぱでも。木は草ではない。それがとても低いかん木でも、私にとって草はもう終わってしまっている。今私は海辺の浜で、空地で雑草をおびただしく見る。あるいは芝生に生えて来る草を引き抜いて黒いビニール袋につめ込むこともある。でも、それらのものは、唯なつかしいもの、本当は私にとって無縁なものとして生い茂っている。
 子供の頃、私は草ともっと一体になって生きて来ていた。草は私と気分的だけでなく物理的にも近かったのだ。私は小さくて、地べたにはいつくばる位の大きさしかなかったのだ。子供の頃私はいつもしゃがみ込んでいた様な気がする。しゃがみ込むとすぐ草の葉っぱをつかんでひっぱってちぎらずにはいられなかった。
 ちぎった葉っぱを私はかならずくんくんかいだ。くんくんかいだあと私はそれを口の中に入れた。口に入れるとはじっこから歯でこまかく噛んだ。それぞれの青くさい苦みを私は区別することが出来た。かやつり草のしんのほの白い茎を少し食べた。やわらかくて甘かった。
 一人で学校から帰る時、野っ原の道のわきに生えている裏の白いぎざぎざの葉っぱをちぎって、指先でこすって歯の裏の白い粉を落した。葉っぱは黒ずんで、私の手の中で生あたたかくなった。粉をこすり落すと私はそれを捨て、又新しい葉っぱを千切っては同じ事をくり返してあきることがなかった。指先は草のしるで、青茶色になり洗ってもなかなかとれなかった。
 真夏に、野原や山道を歩くと、私は両側からおい茂る草の中に埋まってしまった。地面からの熱がこもって草いきれの中を進むと、暑いという事が本当によくわかった。暑さは上の太陽から私をやくのではなく地面から私をむし焼きにした。草いきれの中にもはや酸素の一てきも無い様な気がして、熱い空気を吸った。吸っても吸っても苦しくて私は死ぬかと思い半分泣いていた。
 何のために私はそんな難行苦行をしたかと言えばただ、その草の向うの友達のところへ遊びに行くだけで、行っても友達は、ただ一言「あとで」と言うこともあった。それでも私は私を埋めてむれているすすきの葉っぱの間を息もたえだえに進んでいくのだ。もう私はあの熱い草のにおいの真中を進むことはない。
 すすきの間から、顔だけつき出す位にはでかくなってしまった。
 芝生の雑草をつぶして匂いをかいでも、子供の頃の様に強い匂いが私の鼻をつくこともない。かすかな草くさい匂いの向うの幼い日をもどかしくかぎ分けようとしているだけである。

佐野洋子著『覚えていない』新潮文庫 2009年 pp.164-166