沢山の中から選んだから確率がよいともいえない。死ぬの生きるのといって世界に唯一人と思った人と二年で別れてしまう人も居る。どうしても気が合わずに、二十年も口をきかずに同じ家の中で暮らしていた夫婦は、子供達がその子供を持つようになって、両親のどちらにも同情し、二人を別々に引きとろうかと相談している時、母親が病気になってしまった。入院した妻の病院に夫は住み込んで、二人で手をつないで病院の廊下を歩くようになり、風邪を引いて別の病室に移された夫を、妻は看護婦の目をぬすんで会いにゆき、「一分だけ、一分だけ」と医者にせがんだ。つきそいに来ていた夫の方が先に死んだ時、妻は「長いあいだ苦労をかけました。かんにんね」と深々と頭をさげた。
 彼女もまた幸せな人生を持ったのかも知れない。見合いの平凡なめぐり逢いだった。
 やくざにとび込んだ十九の娘は多分沢山のめぐり逢いを一つにしぼり上げた天才だったのかも知れない。
 親のすすめる男と気の染まぬ結婚をしたかも知れぬ娘は、めぐり逢いを人まかせにしたのかも知れぬが、八十を過ぎた夫に一分でも会いたいと思う老後を持つことが出来た。
 友達を沢山持てるめぐり逢いと一生をかけるめぐり逢いは同じものではない。
 結婚へのめぐり逢いは、運というより外はない。

佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 pp.38-39