今だったら、この発表の仕方はきっとMADムービー(既存の音声・ゲーム・画像・動画・アニメーションなどを個人が編集・合成し、再構築したもの)になるでしょう。ぼくが辻先生に解説したように、自分たちでアニメーションを二次創作してニコ動で流して「みんなどうよ、これ結構ネ申じゃね」とか、「才能のむだ遣い」「そうだそうだ」とコンテクストを共有していくわけです。
 しかし、外国人からみるとアニメーションやゲームやアニメのMADはまだ芸術になっていません。それはなぜか。翻訳者がいないからです。この翻訳者というのが日本人の大嫌いな「批評」だったり「評論」です。批評というのがあってはじめて人はコンテクストの重層化した構造を理解するわけです。意味の後に通底する何枚ものレイヤーを理解するわけです。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.106-107