この目線の誘導は「ああダリのあれか」、そしてこのゴミは「ラウシェンバーグのあれか」と、そしてこのさまよったのは「やっぱりデュシャンか」と「なるほど、これは全部みていくとレイヤーが二〇層になっている」。これは「すばらしい」「たった、ここにゴミを二箇所おいただけで二〇ものアートの歴史を全部コンプリートしているというのはなかなかたいしたものではないか」。
西欧の現代美術というのはこういうゲームなわけです。それは「自由にものを見たい」という人にとって対極にあり、いちばん忌むべきものかもしれない。そこで「不自由だよ。こんなの別に勉強しなくたっていいよ」。そう言ってしまったらそれでおしまいです。だから日本において、現代美術は意味がないというわけです。
村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.100-101
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