そう言えば、一昨日の夜歩いたのは23時近くで、その時間になるとさすがに道を歩いている人は殆ど見かけない。しかも江戸川の土手なんか誰も居ない。すぐ側の車道を車が時々走り過ぎて行くくらいである。その車道は土手のサイクリングロードよりも低い位置を走っているので、必然的に街灯も低く、微妙な高さを照らしている。

 暫くの間、南に向かって歩いていると、風に乗って何処からか女の歌声がかすかに聞こえてくる。最初、演劇部か何かの発声練習かと思ったのだが、どうも違う。声には震えるようなヴィヴラートがかかり、声量がハンパではない。声楽をやっている学生が練習でもしているのだろうか。河川敷の向こう側、つまり川の方から聞こえる。もしかしたら対岸かも知れない。想像して貰えると分かると思うが、暗闇の中からそんな声が聞こえてくると、ちょっと怖い。
 その声が気になりつつも、更に南へ歩こうとする僕の目に、一つの人影が見えた。サイクリングロードをゆっくりとこちらへ歩いてくる。だんだん近づいて来て、その人影が男だと分かった。更に近づいて、5mの距離までくると、それがイタリアかスペインか中東かインド辺りの彫りの深い顔立ちである事が見て取れた。20代の若者で、俯いたまま歩いている。足取りは重く、酷く落ち込んでいるようにも見える。先ほどの歌声は未だ途切れ途切れに聞こえている。若者はうなだれている。そしてその他には僕以外に誰も居ない。何だかもの凄い予感を含んだ場面に出くわした感じである。

 結局その後は何事も無く我々は擦れ違い、それぞれの世界の在るべき場所へ歩き進んで行ったのであった。こういう事があるので真夜中の散歩は面白い。怖いけど。