日常の中ではさして気にする事もなく見逃してしまいそうな光景を焼き付けてある。こういう文章は割と彼方此方で目にするのだが、本当にどうでも良さそうなモノを撮っている。ように僕には思える。何の引っかかりもないし。でも何故か気になって観てしまうし、終いには写真集まで買ってしまう。何がどう気になるのか自分でも解らないままに。例えば、森山大道や荒木経惟や中平卓馬の方が僕に取っては解りやすい。対象物の何が気に入って撮っているのかが解るような気がするからだ。しかし佐内正史の撮る写真はそういう事が何も思いつかないのである。思うに、彼は対象物など撮っていないような気がする。対象物と思しきモノの直前に在る何か、空気のようなモノを撮っているような気がする。しかしそれが僕に心地よさ(のようなもの)を感じさせるのは何故なのか、それは全然さっぱり解らないのである。
少しばかり考えてみると、彼の撮る写真には闇・影(隠喩としての)が無い。全方向からの光に満たされている。今現在目に見えている実体以外には何もない。そう言っているような気がする。汚れも、綻びも何もない清潔な実像。虚飾も欲望も存在しない陽の当たる場所。僕にはそれは空恐ろしく感じる。
以前、何処ぞの巨大掲示板で書いた気がするが、彼の撮る写真に写り込んでいるのは、黄泉の国から再び戻った時に最初に見る光景がそれであるような、そんな印象を受けるのである。
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