DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: psychology (page 1 of 9)

 神経症者としてのダーガーは、永遠の思春期を病んでいた。社会的な関係を制限し、徹底してひきこもること。なるほど確かに彼は就労し、「社会参加」していたかも知れない。しかし私には、ダーガーが社会からみずからを完璧に隔離すべく、「就労」していたように思われてならない。もし就労していなければ、生活のために福祉施設を利用するか、あるいはホームレス仲間に身を投じるしかない。いずれの方向を選んでも、むしろ煩わしい対人交渉を余儀なくさせられる。社会的な向上心を放棄し、目立たない最低限の職業を維持することは、彼の存在をいっそう透明なものにするだろう。ダーガーはこうした「擬態としての就労」によって、みずからの聖域を完全に封印し得た。その結果として六〇年もの間、彼の思春期は保存され続けたのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 p.332

 アウトサイダー・アートには、美術界に所属していない素人の作品も含まれるが、一般には「精神病患者の作品」を指すことが多い。一九二二年、ドイツの精神科医プリンツホルンが各地の精神病院を回って蒐集した患者の作品を著書『精神病者の造形(Bildnereider Geisteskranken)』で紹介して以来、アウトサイダーすなわち精神病者の絵画や造形が広く関心を集めるようになった。

 (中略)

 ダーガーの紹介者であるジョン・M・マクレガー氏は、アウトサイダー・アートを次のように定義する。「広大で百科事典的に内容が豊富で、詳細な別の世界(現実社会に適合できない人が選んだ、奇妙な遠い世界)を、アートとしてではなく、人生を営む場所として作り上げていること」。そう、彼らはみずからの狂気が作り出した世界の地図を作り、彼自身の神のイコンを描く。絵の中で自分の発見した万能治療薬を解説し、自分の見聞してきた火星の風景を描写し、あるいは迫害者が遠隔操作で自分を苦しめるために用いる装置のしくみを詳しく説明する。自分だけの王国で、貨幣を発行し、自分でつくりあげた新しい宗教を図解する。それはすでに「描かれた虚構」などではない。それは作者にとって、現実の等価物にほかならないのだ。
 アウトサイダー・アーティストたちは、作品を展示したり売ったりすることにあまり関心がない。彼らの作品は他人を楽しませる虚構ではなく、現実すら変えてしまうことの出来る道具であり手段なのだ。そんなにも大切で個人的なものを、いったい誰が他人に見せたり譲ったりできるだろうか。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.125-126

 それにしても、なぜ刑務所でこのような不祥事が頻発したのだろうか。これに関連してかつて興味深い心理実験がなされたことがある。
 それは、一九七五年に、スタンフォード大学で行われた。『シャイネス』のベストセラーで知られ、アメリカ心理学会の会長でもある心理学教授のフィリップ・G・ジンバルドーは、健康なアルバイト学生二〇人を募集し、コイントスで囚人役と看守役に分けた。彼らは実験のルールを説明され、合意のもとで「刑務所ごっこ」の実験に参加したのである。演出はなかなか凝ったもので、囚人役の学生は、実際に警官によって自宅で「逮捕」され、裸で身体検査を受けた後に囚人服を着せられて写真を撮影され、地下実験室に監禁された。看守役は、制服と警棒、警笛、手錠を与えられ、匿名性を保つべくサングラスを装用し、交代で囚人の監視をさせられた。囚人は常に番号で呼ばれ、睡眠、食事、トイレなど、あらゆる面で厳重に管理される。違反者にはペナルティが加えられ、暴力は禁じられていたが言葉による侮辱などは禁止されていない。その結果、何が起こったか。
 わずか二日後に囚人役の学生は、ひどく受動的で卑屈な態度に変わり、看守の指示に容易に服従するようになっていた。逆に看守役は、残忍で権威主義的な態度へと変わり、深夜に囚人役をたたき起こして無意味に点呼をとる、といった虐待まがいの行為を繰り返すようになったのである。精神病様の反応を起こして、実験から離脱する学生もいた。結局、二週間を予定していたこの実験は、わずか六日目にジンバルドー自信の指示で中止となり、以後この種の実験は、心理学実験倫理綱領によって禁じられることになった。ちなみに、二〇〇一年にドイツで大ヒットした映画 “Das Experiment”(『es』のタイトルで、日本でも公開された)は、この実験をモデルにしている。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.160-161

 二〇〇四年六月一日午後〇時半ごろ、長崎県佐世保市立大久保小学校の「学習ルーム」で、同校六年生の女児が、同じクラスの十一歳の女児に殺害された。加害者(A子とする)は返り血を浴びた状態で教室へ戻り、学習ルームで首をカッターナイフで切られた被害者(B子とする)の遺体が発見された。A子とB子はもともと非常に親しく、交換日記をしたり、お互いのホームページ(HP)のIDやパスワードを交換しあうほどの仲だった。殺害の動機としては、たまたまふざけあっている時に、B子がA子のことを「重たい」と行ったことに端を発し、お互いのHP上に相手を非難する書き込みをして、そのことをめぐって口論になるなどするうち、A子の側に殺意が芽生えていったようだ。

 (中略)

 とりわけB子が言ったとされる決定的な言葉「重たい」の意味は、その事実性のいかんにかかわらず注目されるべきだ。「見られる身体」を意識しはじめる思春期女子にとって、外見の指摘は時に致命的である。私も職業柄、この年齢の女子に対して、たとえ求められても外見上の事柄にふれることは一切しない。「ほめ言葉」にも傷つくほど、予測不能の反応や影響を引き起こすことを、経験的に知っているからだ。

 (中略)

 ネットカルチャーに関して言えば、この事件で特異だったのは、通常問題となる匿名性のほうではなく、「現実の絵関係」と「バーチャルな関係」が重ねられるという状況のほうであったように思われる。
 おそらくこの領域に関する研究は、韓国のほうがはるかに先を行っている。先日、韓国でオンラインゲーム中毒の治療と予防にたずさわっている精神科医と話す機会があった。

 (中略)

 この精神科医は、サイバー空間への没入が人間を退行させる危険性について危惧していた。私自身も、サイバー空間が一種の鏡像空間であり、他者性の介在が弱いがゆえに攻撃性が先鋭化されやすい傾向を指摘したことがある。掲示板やメーリングリストでの「フレーミング」などをみれば、この点は容易に理解されるだろう。しかし通常は匿名性に守られて、攻撃性が実際に行動化されることは少ない。むしろ行動化されにくいことを担保として、攻撃性がネタ的にエスカレートすることすらある。しかし、日常的に顔を合わせる仲間と「フレーミング」が起こったらどうなるか。これはいまだに未知の領域だが、これから確実に問題となってくる。ネット利用者の増加と低年齢化が、それを即すだろう。
 事件に乗じて、ネット教育を進めるのはいいとしても、ネチケットから著作権まで、望ましいことを一気に詰め込むような愚はおかすまい。いま何を措いても重要なのは、人間関係の経験に乏しい子どもたちに、ネット・コミュニケーションの危険性を伝達すること。その一点のみだ。「ネット上の誹謗中傷は、現実のそれより何百倍も破壊力がある」という事実だけを、懸命に説得することだ。重要なことは「情報の伝達」ではなく、伝えようとする姿勢のほうである。その姿勢の真摯さに反映されることなくして、この事件にどんな教訓がありうるだろうか。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.120-126

 精神分析によれば、人間はすべて「自己愛」を持つとされる。それはなにも、「エゴイズム」とか「自己中心」ばかりを意味しない。むしろ自己愛は、人間が欲望を持ち、また他者を愛するための基盤として、必要不可欠なものなのだ。
 コフートは人間の一生を自己愛の成熟過程としてとらえている。この発達に際して重要なのは「自己ー対象」との関係である。「自己ー対象」とは、自己の一部として感じられるような対象のことだ。乳児にとっては母親が最初の重要な「自己ー対象」となる。自己はさまざまな「自己ー対象」との関係を通じて、その対象から新たな能力を取り込んでゆく。この取り込みの過程は「変容性内在化」と呼ばれる。
 ここでコフートは、自己が発達するために必要な三種類の自己ー対象関係を考えた。これが「鏡自己ー対象」「理想化自己ー対象」「双子自己ー対象」である。「鏡自己ー対象」関係とは、「なんでもできるすごい僕」といった誇大な自己を受け入れ、ほめてくれる母親との関係である。「理想化自己ー対象」関係は、スーパーマンのように理想化された親のイメージとの関係である。このふたつの「自己ー対象」関係が、「野心」と「理想」という、自己にとって重要な二つの志向を決定づける。
 しかし、これだけでは十分ではない。ここでコフートが重視するのは、「双子自己ー対象」関係である。これは、自分と他人は同じ人間であるという同胞意識に近いものだ。この関係こそが、さきにふれた「野心」と「理想」の間に生ずる緊張によって活性化される。才能や技術などの施行機能を発達させるという。そして、主にこの関係をになうのが、家族以外の対人関係にほかならない。ここで、仲間関係が「施行機能」の発達において重要であることに留意しておこう。
 ちなみにコフートによれば、人間の心理で最も重要なことは、その心を凝集的な形態に、つまり「自己」に組織化することであり、自己と環境との間に、自己支持的な関係を確立することでもあるとされる。ここでコフートは、母親のあり方の重要性を強調するのだが、そのことは、今は措く。最も望ましい発達は、青年期や成人期を通じて、支持的な対象が持続することなのだ。「ひきこもり」に問題があるとすれば、それはまさに、望ましい「支持的な対象」との関係が途絶してしまうことによるだろう。

斎藤環著『「負けた」教の信者たち〜ニート・ひきこもり社会論〜』中公新書クラレ 2005年 pp.47-48

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