「花柳界」とう表現はもともと李白の詩句に由来し、花街の女性を花と柳に譬えたたものだが、やかましく言う人はこの二つを区別する。今ではほとんど忘れられているけれども、元来、花は遊女、柳は芸者を指したという。ただ、この区別が広く行われたことは一度もなかったし、かりに理屈の上では認めても、実際にはたちまち曖昧になってしまった。そもそも「芸者」という言葉は、日本語の中でいちばん定義のむずかしい単語の一つだ。荷風も芸者という言葉自体、それにこの言葉の指す観念もまた、殊に明治の山の手の色街では堕落したと嘆いている。なるほど芸者の中には、まるで修道女さながら禁欲的に芸に身を捧げる者もいたけれども、芸者とは名ばかり、なんの芸があるのかと問われれば困る者も多かった。こういう「芸者」は、値段さえ折り合えば身を売った。けれども江戸の花魁は、時には驚くほど高い教養と技芸を身につけていた。彼女たちの手になる絵や恋文が今も僅かに残っているが、そうしたものを見れば、その教養の高さは歴然としている。
こうした曖昧さはあるものの、少なくとも江戸期の吉原では、客をもてなす手の込んだ手順の中で、芸者と花魁はそれぞれに別の役割を分担していた。お大尽の豪儀な一夜の歓楽のうち、芸者は宵のうちに歌と踊りを披露し、夜がふければ花魁の出番になるわけである。
明治から大正へと進むにつれて、遊郭の芸者は次第に衰え、遊郭以外の芸者のほうが盛んになる。遊郭はただ色を買うだけの場所になってゆく傾向が強く、もう少し上品な楽しみを求める時には、金のある連中はむしろ料亭街に出かけ、芸者を呼ぶという形に変わってきたのだ。この変化がいちばんはっきり現れたのは引手茶屋の衰微だった。格の高い妓楼では直接には客を入れず、金のある客のほうでもいきなり登楼することなど考えない。まず茶屋に入って、そこで手筈が整えられる。当然、茶屋は芸者や幇間との結びつきが深かったし、伝統の仕来たりを守る上でも大きな役割を果たしていた。このお茶屋が衰微するにつれて、遊廓がただ売色だけの場所になっていったのも当然である。
エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.231-232
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