DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 ここで「ひきこもり」の側から社会をみるなら、私は(「この国」ならぬ)この時代においてはいまだ「自由」が正しく認識されていないのではないか、という実感を持っています。ひきこもり状態とは、一切の社会的束縛を免れているという点からみて、きわめて自由な立場とみることもできます。しかるに、もっとも自由な立場の人間が、もっとも不自由な状況に甘んじている。私はこの一点に、いまだ本来的な意味での「自由」を享受し損ねている、この時代の病理を感じます。「自由であること」それ自体が葛藤の原因となるような時代を、「思春期の時代」とかりに呼びうるなら、「社会的ひきこもり」とはまさに、そのような時代を象徴するような病理ではないでしょうか。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 p.210

 社会的ひきこもり事例の経験からいいうることとして、「学校」と「社会」との間で、適応の基準がかなり異なっているという事実があります。大学卒業までは何ら問題なく経過した人が、就労の段階でつまづくことが、いかに多いことか。また、さきにも指摘しましたが、私の経験した社会的ひきこもりの事例中、まとまった期間の就労経験のあるものは皆無でした。この事実は、学歴については中卒から一流大卒まで、実に幅があることと対比して考える時、学校と社会との価値基準のずれが、きわめて深刻なものであることを示唆しています。それは単に、学校で学んだことが社会では役に立たないとか、そのような意味だけではありません。端的にいって、この二つの社会において、対人関係のありようがかなり異なっている、ということです。
 その違いとは、一言でいうなら「役割意識の違い」ということになります。「社会人」には、自らのさまざまな可能性を断念して、組織内で期待される一定の役割を引き受けることが義務づけられます。この「断念し、引き受けること」こそが、わが国の教育システムにおいてはけっして学習できない行為なのです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.204-205

 ひきこもり事例では両親に対して密かに「恨み」を持っていることがあります。例えば「こんな惨めな自分が今あるのは、育てた親の責任である」「本当は行きたくない学校に、無理に行かされた」「あの時無理にでも学習塾に入れてくれれば、皆に遅れることはなかった」「いじめられて苦しんでいる時に、気づいてくれなかった」「近所の環境が悪かったのに、引っ越しをしてくれなかった」「中学生からやり直したい。時間を元に戻して欲しい」などのような。
 こうした理不尽とも思える非難の矛先を向けられた時、それでも冷静でいられる親は少ないでしょう。「それは事実ではない」とか「そんな理屈は通らない」といった、「正しい反論」をつい、したくなってしまうかもしれません。しかし、ここでも「正しさ」は、さして重要なことがらではありません。とにかくいいたいことはさえぎらずに、最後までいわせ、耳を傾けること。すでに遮って反論したり、無理に話をそらしたりすべきではないのです。たとえ本人の記憶が不正確で、明らかな事実誤認があったとしても、本人がどのような思いで苦しんできたか、まずそれを丁寧に聞き取ることに意味があるのです。
 もちろん「いつも同じことを、くどくど聞かされるので参ってしまう」とこぼす家族も、少なくありません。しかし、そのような家族は、しばしば本人にいいたいことを十分にいわせていません。本人が最後の言葉をいい終わるまで、じっと聞き役に回り続けることは、かなり困難なことです。「何が正しいか」ではなくて、本人が「どう感じてきたか」を十分に理解すること。それが誤った記憶であっても、「記憶の供養」をするような気持ちでつきあうこと。これは本当のコミュニケーションに入る手前で、どうしても必要とされる儀式のようなものです。
 ただし、注意すべきなのは、「耳を傾けること」と、「いいなりになること」はまったく異なる、という点です。当たり前のようですが、しばしば混同されがちなことです。例えば、、本人が腹立ちのあまり、謝罪や賠償を要求してくることがあります。こうした要求に対しては、原則として応ずるべきではありません。私の推測では、こうした要求は、訴えに対して十分にとりあわなかった家族に向けられがちのようです。訴えを家族に届かせるために、より強烈な表現が選ばれた結果の、謝罪・賠償要求なのです。ですから、やはり大切なことは、本人がほんとうに「自分の気持ちを聞き取ってもらえた」と感ずることです。そのように感ずることで、格別のことは何もしなくても、恨みや要求は次第に鎮まっていくものです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.141-143

 社会との一定の関係が成立してはじめて、親の愛情が意味を持つということ。これはどういうことでしょうか。「すべての愛は自己愛である」と、さきほど私は断言しました。これは事実であるかどうかという話よりは、愛というものを分析するには、さしあたりこのように定義するしかない、という約束事のようなものです。しかし、かりにそうであると仮定して、なぜすべての人が自己愛的に、自己中心的にふるまわないのでしょうか。私はそれこそが「社会」の機能であると考えます。つまり、自己愛というものは、それを維持するために必ず、「他人という鏡」を必要とします。他人を愛し、あるいは他人から愛されることによって自己愛を維持することが、もっとも望ましいのです。
 しかし、ひきこもり状態にある青年には、このような鏡はありません。あるのは自分の顔しか映し出すことのない、からっぽの鏡だけなのです。このような鏡は、もはや客観的な像を結んでくれません。そこには唐突に「力と可能性に満ちあふれた自分」という万能のイメージが浮かび上がるかと思えば、それは突然かき消えて、今度は「何の価値もない、生きていてもしょうがない人間」という惨めなイメージに打ちのめされる。このように彼らの鏡は、きわめて不安定でいびつな像しか結んでくれません。ようするに自己愛が健全に(ここでは「安定的に」というほどの意味ですが)保たれるためには、家族以外の「他人」の力によって「鏡」を安定させることが必要なのです。
 人間は、自己愛なしでは、生きていくことすらできません。自己愛がきちんと機能するには、それが適切に循環できる回路が必要なのです。幼児期までは、それは自分と家族との間を循環するだけで十分でした。しかし思春期以降は事情が違ってきます。事情を変えるもっとも大きな力が「性的欲求」のありようの変化です。そう、思春期以降の自己愛は、異性愛を介在させなければ、うまく機能しません。そして異性愛ばかりは、家族がけっして与えられないものなのです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.127-128

 ひきこもり事例の治療は、なぜなされなければならないのでしょうか。社会学者のタルコット・パーソンズという人が、病者の権利について、次のようなことを述べているそうです。「病者は労働を免除され、治療を受ける権利がある。また病者の義務とは、治ろうとする意志を持ち、治療者に協力することである」。そう、健康な成人の義務が労働であるとするなら、病気にかかった成人の義務は「治療努力をすること」なのです。このように断定することで、素朴でしっかりした「臨床の視点」を定めることが可能になります。「治療主義」との批判はもとより覚悟の上です。私は一人の臨床家として、このような基本姿勢のもとで、社会的ひきこもり事例と向き合ってきました。そしてこの間、基本姿勢を変更する必要を感じたことは、ただの一度もありませんでした。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 p.118

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