DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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I’m not there.

I'm not there

 6人の俳優がボブ・ディランの半生をそれぞれに演じ分ける伝記映画。ディランに似ても似つかない俳優(黒人の少年や女性も含まれる)が別な名前で演じているのでとても判りづらい。全体としては、ディランがどうして古いブルースではなく現在を歌うようになったのかという事と、そこから話が飛んで、ディランがプロテストからどうやって身を剥がして行ったかという事が描かれていたのだと思う。僕はボブ・ディランの持つエピソードなどに関しては余り知らない。しかしそれを良く知る人にとっては、ディランの有名なエピソードを別な人間が演じている事に面白みを感じるのかも知れない。伝記映画なぞ当人に興味の在る人でなければ観ないだろうから、その線は間違ってはいないのだろう。個人的には、現在のシャルロット・ゲーンズブールを見る事が出来たのが良かったのだが、本編の評価とは関係はない。

 劇中で出てきた「おたずね者の心得7カ条」というものが、なかなか示唆に富んでいた。

  • その1 レインコートの警官を信じるな。
  • その2 情熱と愛には気をつけろ。両方ともすぐ冷める。
  • その3 社会問題への関心を問われたら、じっと目を見つめ返せ。相手は黙る。
  • その4とその5 本名は隠せ。自分を見ろと言われても、決して見るな。
  • その6 目の前にいる人間にすら理解できぬ言動は慎め。
  • その7 何も創造するな。誤解される。その誤解は一生付きまとう。決して解けない。

 「この人には理解されないかも知れないなー」と感じながら喋り続けると、後々になって思い返せば大凡が誤解されていたように思う。

20年越しの岡村靖幸

 先日、岡村靖幸のライブをゼップ福岡で観た。友人に誘われて行ったのだが、実は20年ほど前にも、同じ友人と千葉のNKホールで岡村氏のライブを観ている。はっきりした年が思い出せないので検索してみると、1992年と2004年にNKホールで行った記事が出てくるが、2004年だと僕は30代になっているので明らかに違うし、1992年だと僕が上京した年なのでそれも違うような気がする。もう一二年後だったと思うのだけれど、気のせいかも知れない。いずれにせよ、約20年前の話だ。この施設は2005年に閉鎖されているが、たしかディズニーランドの近くに在ったと思う。不慣れな上に、そんな場所まで行くのが面倒だなと思っていたのを憶えている。ライブ自体は結構楽しんだと思う。アリーナ席に陣取るのは殆どが女性で、男共は遠巻きに眺めているような感じであった。そしてステージの上に、精子を模ったと思われる銀色のオブジェが吊り下げられていて、やっぱり変な人だなあと思っていた。

 さて、それから三度、覚醒剤取締法違反の容疑で逮捕されるなどという波瀾万丈の人生を経た岡村氏と再び遭遇する事になったのだが、果たして、全体の印象を述べるなら、氏は相変わらずだった。アルバムを出さないので、演奏する曲は近年に出したシングル数曲を除いては以前と変わりはないし、氏自身の見せ方も変わりはないし、時折差し入れてくる台詞もそのままであるように思う。ただ、やはり氏も歳を取った。もう49歳である。最近のスタイルである眼鏡を掛けたスーツ姿は以前に比べるとずっとまともに見えるし、身体を俊敏に動かせないのでダンスが緩慢で、以前は MC が多かったように思うが今回は殆ど喋らなかった。20年前に観た時の曲のアレンジがどうであったか憶えていないが、おそらくより複雑で多様になっているような気がする。しかしモニターの音がやけに大きくて、途中まで結構ツラかった。ライブなんてものに足を運ぶのが数年振りなので、大音量に慣れないだけだろうと思っていたが、後日同行した友人にその話をすると彼も同じように感じていたらしく、しかも彼曰く「いつもそう」だそうな。友人は20年振りの僕と違い、何度も岡村氏のライブに足を運んでいる。何故あんなに音を大きくするのだろう。不思議だ。世の中の人々はそんなにも強い刺激に飢えているのだろうか。僕は、自分が歳を取ったからそう感じるのかとも考えたが、演奏者が同年代だし、観客もそうだ。これはシネコンで映画を観る際にも同じような事を感じるのだが、詳しく述べると長くなるので他日に譲る。

 途中の MC(岡村氏は喋らない。喋るのはマニピュレーターの人)で年齢の話になって、「40代の人手を挙げて」という呼びかけに、1諧アリーナ席の大半の人が手を挙げた。僕の見る限りでは、その7割は女性で、僕が座っていた2階席にしても同じようなものだったと思う。恐らく20代の頃からずっと通ってる人達なのだろうな。中にはツアーを最初から追いかけている人も居るようだ。決まった振りがある訳ではなさそうだが、合いの手やコーラスなど一挙手一投足が全曲に於いて揃ってるし、お行儀が良い。客層がほぼ固定しているのかも知れない。嫌な言い方をするが、その光景の中に身を置いていると、どことなく閉鎖的な雰囲気を感じていささか居心地の悪さを感じた。まあ、気のせいかも知れない。キャリアの長いミュージシャン、しかも寡作とくれば、本当に好きな人しか観に行かないだろうし、同年代のファンならば共に成長してきたという気持ちもあるだろう。昔からのファンが、毎年(塀の中に入っていなければ)一度、頑張って生きてる岡村氏と相見える為にコンサートホールに足を運んでいる。たぶんそんな感じで、きっとそれで良いのだろう。

 以下に近年リリースされたシングル曲を並べる。結構良い曲出してるなあ。

午睡のための音楽

Green Sleeves

Sinfonia

Transformations

 ずっと昔、渋谷のタワーレコードだったと思うが、立ち寄ったクラシックのコーナーで村治佳織の「パストラル」が推されていた。「美少女ギタリスト」だとかそういうノリのポップが貼られていたと思う。ふうん、と思ったのみでその時はその場を通り過ぎたのだが、後からどうにも気になってその棚へ戻った。その頃の僕にとってギター曲と言えば、バッハのリュート組曲目当てで買ったジョン・ウィリアムズのアルバム一枚を聴いた事があるくらいでほぼ何も知らなかったので、楽曲としては興味の持ちようがなかったにも関わらずその CD が気になってしまったのは、村治佳織の容姿が良かったからだろうか。結局僕はそのアルバムをジャケ買いした。
 部屋に戻って聴いてみると、悪くはないと思った。それから後、そう頻繁にではないけれども、時折思い出したようにこのアルバムを聴くようになった。意気込んで聴くようなものではないが、部屋の中に流しておく音楽としては適切なであるように思えたので、主にそういう用途で流した。そしてその内に、部屋を満たしておくにはアルバム一枚では足りないと思うようになり、時を遡ってデビューアルバムから順に少しずつ揃えていったのだけれど、3枚目のアルバム「シンフォニア」の「オンブラ・マイ・フ」を聴いた時にふと思い付いた。これは午睡のための音楽であると。明るい陽差しを遮った屋根の下で、涼しげな風に撫でられながら眠りに落ちる自分の姿を夢想した。沈み込むような感じではなく、自分の身体を軽くして横たわっている事が出来るような魅惑的な眠りだ。そしてその季節は五月が良かろうと思われる。まだ強すぎない陽差しに目を細め、爽やかな薫風を吸い込み、年に何度もない最良の気候の日に聴くのが良かろうと思われる。

 村治佳織のアルバムを全て持っている訳ではないが、自分が所有する中で午睡に最も適しているであろうアルバムを上に挙げた。曲単位ではもっと在るのだけれど、アルバムを通して聴きながら微睡むには少々邪魔になるような曲が混じっていたりするので、そういうアルバムは省いた。音階の高低差が少なく、溜めや抑揚が控えめで、淡々とした演奏を選んだ。
 ボリュームを絞り、窓を開け放ち、揺れるカーテンの影に隠れるように身を横たえて聴く音楽である。

三味線の音色

 先日、博多座にて「伊達の十役」を観てきた。歌舞伎を久しぶりに鑑賞する事が出来たというのもあるが、博多座に入るのも初めての経験であったので、色々と楽しむ事が出来た。
 そしてこれは今回に限らず、歌舞伎を観覧すると毎回思う事だが、とにかく三味線の音色に関心させられる。歌舞伎の伴奏音楽なので清元だと思うのだが、華やかで、軽やかで、乾いた音を出すかと思えばまとわりつくような感じを受ける事もあるし、三味線は本当に心地の良い音を出すのだなあと思いながら聴いていた。あまりに伴奏に気を取られて台詞を聞き逃してしまったりもする。しかしどうしてこんなにも心地良く聞こえるのか、その訳を知りたいものだと考えながら眺めていたのだが、よく判らない。劇場で聴くと、音は曲線的に聞こえる。一音一音が弧を描き、それらが連なると揺れながらくるくると回転し始める。大袈裟かも知れないが、僕にはそのように聞こえるのだ。

 例えばこの動画。歌舞伎の時とは配置が違うが、演奏しているものは大体このようなものだ。しかしこれでは、現場で聴いた時のように音に広がりがないし、あの幸福感のようなものが感ぜられない。ちゃんとした録音ではないから仕方がないけど、これは CD で聴いたらちゃんと聞こえてくるのだろうか。清元を CD で聴いた事はないので何とも言えないが、何となくだけどあの感覚は再現されないんじゃないかと思う。演者と視聴者との距離などがきちんと配慮された劇場の音響設計があってこそではないだろうか。僕の場合は三味線だけが殊更に美しく感ぜられるが、他の楽器や歌唱も特別な音質として聞こえているのかも知れない。
 あと考えられるのは、その場に自分が居る事の昂揚感も手伝って良く聞こえているのだろうという事。他のジャンルの音楽のコンサートでも、演劇の舞台でも、スポーツ観戦なんかでも、現地に身を置くという事がより強い印象を植え付けていると思うので、その点は致し方ないと思える。一応 CD を買って聴いてみようとは考えているが、それで満足できないとなると、あの音色を聴くためには劇場に足を運ぶしかない。

 とこんな事を書き連ねていると三味線しか聴いていなかったように読めるが、そんな事はなく舞台もちゃんと楽しんでいたので、次の観劇を楽しみにしているのである。それがいつになるのかは判らないけど。

グスターボ・ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

 最近また視聴する機会があったので、この際に何となくまとめておく事にした。

 最初にこの動画を観たのだったと思う。それで、この動画を観るきっかけになったのは一体何だったか。たしかこのような記事を読んで興味を持ったのだったと思う。これは当時読んだ記事ではないが、該当の記事では「のだめのSオケのパフォーマンスは、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラのからヒントを得たものである」くらいにハッキリ書いてあった。「のだめカンタービレ」のドラマは2006年10月からの放映で、2006年からドゥダメルはシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを指揮しているようので、その頃からベネズエラや海外ではあのようなパフォーマンスをやっていたのだと考えると、その可能性はありそうだ。因みに今話しているのはドラマ版のだめカンタービレの第四話、Sオーケストラ演奏会の様子である。更に因むと、原作の漫画版では第三巻の内容で、これは2002年が初版である。パフォーマンスもずっと地味で、これはあまり関係なさそうだ。

Wikipedia – グスターボ・ドゥダメルWikipedia – シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

 上に載せた動画は2008年12月にドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラが初来日した時の映像のようだ。おそらくテレビで放映されたものなのだろう。当時の公演のインフォメーション・サイトがまだ残っていた。解説も期待感をかなり呷っている。しかし、動画のコメント欄には指揮者とオーケストラはノリノリなのに客が冷めていて勿体ない、というような書き込みも出てくる。でも何のコンサートでも日本人はそうなので、決して受けなかった訳ではないと思う。客までもノリノリだとこんな感じになるらしい。カラカスはベネズエラの首都である。

 ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユース・オーケストラを育てたエル・システマに関する映画もあって、それは未視聴なのだが、YouTube にトレイラー動画が在った。これだけでも様子が掴めると思う。

Wikipedia – エル・システマ

 ★

 これはBBC プロムスという英国の音楽祭におけるアンコール演奏の様子なのだが、アンコールでオーケストラはベネズエラのナショナルカラーを使ったユニフォームに着替えて出てくる。この映像に限らないのだが、オーケストラのメンバー達の表情がとても誇らしげである。上のリンク先の内容と重複するが、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラの概要を記す。

 「エル・システマ」を実践するFESNOJIVが1999年に設立。エル・システマは、元政治家で経済学者のホセ・アントニオ・アブレウ等の提唱により1975年から始まった。
 エル・システマ生徒の中には元ストリートチルドレンで麻薬の密売や強盗を経験した者もいるが、こうした者を更生させたり、放課後に子どもたちを音楽に従事させることで犯罪から守る役割を果たしている。エル・システマのモットーは、”Tocar y Luchar”(奏でて戦う)である。
 FESNOJIVは、現在ベネズエラに200もの青少年オーケストラを運営している。14歳未満の子どもたちからなる児童オーケストラ、14歳から25歳までの青少年からなるテレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ(2009年設立)などである。その中から選抜されたメンバーで組織したのがこのオーケストラである。オーケストラのメンバーは25歳以上の青年からなる。

 文中にある団体「FESNOJIV」の理念にもあるように「貧しい子供達のための、クラシック音楽に拠る無料の教育」の成果なのである。

 ここからは僕の勝手な想像に過ぎないが、このオーケストラの団員であること、そして自分自身であることへの誇りがこうした表情に顕れているのではないだろうか。彼らの演奏を聴いたり、その様子を観たりすると、自分の中から「嬉しさ」が湧き上がってくる。それは彼らの中に喜びが溢れていて、それが美しい音となって流れ出し、しかしそれでも全然足りないので、ドゥダメルの指揮の元、半ば統制されたパフォーマンスとして発露しているからではないだろうか。

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