DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 端的にいって、現在の教育システムは、「去勢を否認させる」方向に作用します。
 どういうことでしょうか。まず「去勢」について簡単に説明しておきます。去勢とはご存じのように、ペニスを取り除くことです。精神分析では、この「去勢」が、非常に重要な概念として扱われます。なぜでしょうか。「去勢」は、男女を問わず、すべての人間の成長に関わることだからです。精神分析において「ペニス」は、「万能であること」の象徴とされます。しかし子どもは、成長とともに、さまざまな他人との関わりを通じて、「自分が万能ではないこと」を受け入れなければなりません。この「万能であることをあきらめる」ということを、精神分析家は「去勢」と呼ぶのです。
 人間は自分が万能ではないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてきます。さまざまな能力に恵まれたエリートと呼ばれる人たちが、しばしば社会性に欠けていることが多いことも、この「去勢」の重要性を、逆説的に示しています。つまり人間は、象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができないのです。これは民族性や文化に左右されない、人間社会に共通の掟といってよいでしょう。成長や成熟は、断念と喪失の積み重ねにほかなりません。成長の痛みは去勢の痛みですが、難しいのは、去勢がまさに、他人から強制されなければならないということです。みずから望んで去勢されることは、できないのです。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.206-207

 80年代に猛威をふるった管理教育は、90年代以降、見直しが進められた。ふたたび国立国会図書館の資料を「管理教育」で検索すると、90年代以降、その見直しに関する記事が目につくようになる。

 (中略)

 事実、90年代に入って、80年代に見られたような露骨な管理教育はなりをひそめはじめる。管理教育という「鉄の檻」がなくなっていくことは、若者たちにとっては「大人たち」からの「解放」を意味した(その流れはその後、「ゆとり教育」へとつながっていく)。
 しかし一方で、そのことはそれまで強固であった「大人の世界」の揺らぎをも意味していた。92年の論文で辻創は学校における「自由放任」の問題を指摘し、後に社会問題化する管理教育の見直しがもたらす「学級崩壊」の弊害について論じている。それはまさしく若者がみずからを抑圧してくる「大人」という「敵」を失った瞬間でもあった。

阿部真大著『地方にこもる若者たち〜都会と田舎の間に出現した新しい社会〜』朝日新書 2013年 pp.119-121

 今でこそ信じられないかもしれないが、80年代は「管理教育」と呼ばれる徹底した規律訓練型の教育方法が多くの学校で取り入れられていた。そしてそれは多くの子どもや親の反感を招いていた。実際「管理教育」をキーワードに国立国会図書館の資料を検索してみると、80年代を中心に、その問題を指摘する記事や本が多数ヒットする。特に多かった81年を見ていくと、「つくられる『良い子』たちーー管理教育の実態を衝く」、「軍隊調も出た管理教育の凄まじさーー復古教師はひたすら深部へ浸透する」、「受験管理教育と非行」、「今こそ管理教育に抵抗する者の連合をーー『右傾化に揺れる学校現場』を読んで」、「ファシズムを先取りする『学校教育』ーー愛知県の管理教育の実態を衝く」など、刺激的なタイトルが並んでいる。

阿部真大著『地方にこもる若者たち〜都会と田舎の間に出現した新しい社会〜』朝日新書 2013年 p.40

サラマンドラ

 子供の頃に見聞きしたもので、大人になった今でも記憶に残っていて、度々思い出しては当時と同じような強烈な気分に陥るというものが在る。子供というのは何ら防御する事なく、真っ正面から受け止めてしまうので、良くも悪くもその印象が心のど真ん中に刻印されてしまうものだ。NHK「みんなのうた」で流れていた「サラマンドラ」という歌は、僕にとってはそういうものの一つだ。

2014.09.25:残念ながら該当動画が削除されてしまったようなので、誰かがカバーした動画を載せておきます。

 歌っているのは尾藤イサオ。尾藤イサオと言えば「あしたのジョー」の主題歌だが、それと同じテンションで歌い上げる。そのはらわたを震わすような声におののいていたというのもあるが、歌詞の現すそれまでに感じた事のない淋しさに、小学校に上がったばかりの僕は打ちのめされてしまったのだった。この世に、そんなにも甚大で強烈な淋しさが存在するという事が信じられなかった。そう言えばその当時、この歌を好きだったのかどうかよく判らない。でも、とにかく、僕に重くのしかかってくるその歌に耳を塞ぐ事は出来なかった。
 大人になった現在、そのような淋しさが現実に存在する事は知っている。その存在を消す事の出来ぬ事実として受け容れる心構えも一応はある。それでも尚、この歌の歌詞を聴いていると、やりきれない気持ちで一杯になるのである。アニメーションの可愛らしさが唯のの救いであるが、NHKはどうして、このような歌を子供向けの番組で流そうと考えたのだろうか。それこそが教育だと思ったのだろうか。それはたぶん、正しいような気がする。

 余談:この映像、僕の記憶にあるものと少し違う気がする。僕の記憶では「こぼれる炎ぐちひとつ」のところで、サラマンドラが夜空に向けてポッと小さな炎を吐いていたと思う。別バージョンでもあるのかな。

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