DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 一方、軍用機のデザインはどのような傾向をみせているのか。マーキングに関して言えば、軍用機は旅客機とまったく逆の途をたどるのである。第二次世界大戦以前の戦闘機や爆撃機は一般に、当時の旅客機よりはるかに派手な塗装が施されていた。主翼、尾翼ともに星や鉤十字などの軍のマークがでかでかと入れられ、機首には眼や獰猛そうな牙をむき出しにした口が描かれたりした。編隊やパイロット個人のエンブレム、撃墜数を表す敵軍のマークを勲章のように入れることもあった。ほとんど暴走族の車のごとき様相を呈していたのである。
 これは何も飛行機に限らず、古来、世界のどこでも兵器や武具にはそうした派手な装飾が施されることが多かった。美術品のように飾られることも多い鎧や甲冑などは、その端的な例であろう。派手な色使いやさまざまな勲章、装飾は、見方の戦意高揚と同時に、敵を畏怖させる力をすら帯びており、立派な戦術機能を持っていたのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.203-204

 インターフェイスや体験空間のデザインがエンタテイメントを参照することは、美術館やアートワールド全体の資本主義との関係強化とあいまって、面白いがリスキーでもある。その混乱や揺らぎは、アートが建築、デザイン、映像、社会学や科学など他のジャンルと横断的に関わり、その境界が曖昧化していることと連動する。
 総じて言えば、アートにおいて観客の関与が大きくなればなるほど、ヴァナキュラーでローカルなアートシーン、特に都市を中心としたマルチモダニズムの形成が促進されることになる。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.144-145

蓑:お客さまに来てもらうためには、ポスターのデザインも重要ですね。それもデザインが良いか悪いかではなく、まず、どこでやっているのか、いつからいつまでやっているのかがはっきりわかること。でも、デザイナーはたいてい、美術館の名前を小さくしちゃうんですよ。

福原:デザイン優先なんでしょうけど困りますね。いくら言ってもなかなか直らないんです。だから最後の手段で、当館ではこのポスターのサイズならロゴは最低何センチと大きさを決めたんですよ(笑)。

蓑豊著『超〈集客力〉革命』角川oneテーマ21 2012年 p.206

食卓の器

 今年になって、それまでに使っていた食器を落として割ったり、よくよく見ればあちこち欠けていたりして、それらの買い換えを言い訳にちょこちょこと器を買い揃えていた。本来なら直接自分の眼で見て、触って、それから選びたいのだけれど、そういう店をなかなか見つけられず、見つかるのはやたらと高額な器を扱っている店か、それともなんちゃって感溢れるしゃれおつ和風な店がどちらかであった。
 世の中に出回っている器がそれらだけであるはずがないとは思ってはいたものの、どうにも手段を思い付かず、仕方がないので手っ取り早く楽天に出店している陶器を扱う店を探したのだった。

 結果として、京都の陶工を何人も抱える店を見つけ、そこで酒器と皿、丼を買った。僕は流麗な文様の入ったものは余り好きではなく、かつ肉が薄いものも余り好きではない。ただそれは、自分が日常の中で使うという前提での話だ。自分の作る料理を盛りつける事を考えていくと、どちらかと言えば地味な形や色合いの物が適当であるように思えるし、うっかりと落としたりする事を考えると肉厚な方が安心である。それに、特にグラスやぐい呑みなんかでは、唇に器を当てがった時の厚ぼったさが、飲み物に柔らかさを与え、それを含めて美味いと感じる。日常で使う器の良さというのは、そういう事ではないのかなあ、と思っている。

 そして今は沖縄の陶器が気に入っている。器に繊細さはないが、上記の条件は満たしており、何より安い。京都の店と同じように何人もの陶工を抱えた店だが、値段はおよそ半分。恐らく他の地方の伝統的な器に比べても同じようなものだろう。この値段の差はどこから来るものなのだろうか。観賞用として用いられてきた歴史が浅いのだろうか。詳しく歴史を紐解いて行けば判るのかも知れないが、その事にはさして興味も沸かないので、調べないままであるかも知れない。取りあえず今のところは、使い心地の良い器を適度な値段で手に入れる事が出来れば、それで十分なのだから。

視覚的言語感覚

 僕は洋楽のCDを買う時、出来るだけ洋盤を買う事にしている。洋盤の方が安いという経済的な理由はこの際横に置いておくとして、僕が洋盤を好んで買うのは、洋楽のCDのジャケットやライナーノーツに日本語が記載されているのが何となく嫌だからである。この感覚を説明するのは非常に難しいのだが、例えば Led Zeppelin の四枚目のアルバム「 IV 」。CDは持っていないのでレコードの話をするが、このアルバムはジャケットにクレジットは一切記載されていない。これはバンドのメンバーの意向でジャケットに文字を入れたくなかったらしい。ここまで拘っているのに文字を入れてしまうのは無粋である。ましてや制作する際には意識する事すらない多国語の文字を入れるなんて事は冒涜に近い。(同じ理由で、現在煙草のパッケージに記載されている「肺がんの原因の云々」の文字が嫌で堪らない)
 解り易いというより極端な例を挙げてしまったが、要するに文字一つとは言えそれは全体を構成するデザイン要素の一つであるので、それを考えなしに変更するというのが気に入らないのである。

 因みにこの感覚は多方面に適応する。先日僕は前々から欲しかった Gaspard et Lisa の絵本を二冊買ったのであるが、随分前から何度も絵本コーナーに佇んで(おっさんが独りそんな場所に居る事を想像するとかなり変だが)品定めをしていた。しかしやはりどうしても日本語のタイトルや本文が嫌なので棚に戻していたのだ。そしてついに僕は思いきって紀伊国屋新宿本店の7階洋書コーナーでフランス語版を手に取った。これである。全く申し分ない。一瞬、全巻買ってしまおうかとも考えたが取り敢えずは止めておいた。何故なら僕はフランス語を全く解さないからである。しかしながら全く読めないのも悔しいのでポケットサイズの仏日辞典を一緒に購入した。絵本に書いてある文章くらいはイケるだろうと多寡を括っているのだが、今のところ何も手を付けていない。何故なら今「独りで学べる韓国語楽々スタート」というテキストを読んでいるからである。文字と発音でいきなり躓いてはいるけどね。

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