DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 神経症者としてのダーガーは、永遠の思春期を病んでいた。社会的な関係を制限し、徹底してひきこもること。なるほど確かに彼は就労し、「社会参加」していたかも知れない。しかし私には、ダーガーが社会からみずからを完璧に隔離すべく、「就労」していたように思われてならない。もし就労していなければ、生活のために福祉施設を利用するか、あるいはホームレス仲間に身を投じるしかない。いずれの方向を選んでも、むしろ煩わしい対人交渉を余儀なくさせられる。社会的な向上心を放棄し、目立たない最低限の職業を維持することは、彼の存在をいっそう透明なものにするだろう。ダーガーはこうした「擬態としての就労」によって、みずからの聖域を完全に封印し得た。その結果として六〇年もの間、彼の思春期は保存され続けたのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 p.332

 アウトサイダー・アートには、美術界に所属していない素人の作品も含まれるが、一般には「精神病患者の作品」を指すことが多い。一九二二年、ドイツの精神科医プリンツホルンが各地の精神病院を回って蒐集した患者の作品を著書『精神病者の造形(Bildnereider Geisteskranken)』で紹介して以来、アウトサイダーすなわち精神病者の絵画や造形が広く関心を集めるようになった。

 (中略)

 ダーガーの紹介者であるジョン・M・マクレガー氏は、アウトサイダー・アートを次のように定義する。「広大で百科事典的に内容が豊富で、詳細な別の世界(現実社会に適合できない人が選んだ、奇妙な遠い世界)を、アートとしてではなく、人生を営む場所として作り上げていること」。そう、彼らはみずからの狂気が作り出した世界の地図を作り、彼自身の神のイコンを描く。絵の中で自分の発見した万能治療薬を解説し、自分の見聞してきた火星の風景を描写し、あるいは迫害者が遠隔操作で自分を苦しめるために用いる装置のしくみを詳しく説明する。自分だけの王国で、貨幣を発行し、自分でつくりあげた新しい宗教を図解する。それはすでに「描かれた虚構」などではない。それは作者にとって、現実の等価物にほかならないのだ。
 アウトサイダー・アーティストたちは、作品を展示したり売ったりすることにあまり関心がない。彼らの作品は他人を楽しませる虚構ではなく、現実すら変えてしまうことの出来る道具であり手段なのだ。そんなにも大切で個人的なものを、いったい誰が他人に見せたり譲ったりできるだろうか。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.125-126

 なぜ、そこまでメインカルチャーは抑圧の力が大きいのか? 少し説明してみよう。
 メインカルチャーのルーツは、キリスト教とギリシャ哲学だ。
 まずギリシャ哲学の頃からの伝統的考え方として「世の中のすべてには理由がある。物事はすべて論理的に存在していて、人間が努力して賢くなればあらゆる事は解明できる」という思想がある。
 その考え方をキリスト教が少しアレンジする。世の中には、はっきりとした秩序(コスモス)の部分と、はっきりしない無秩序(カオス)の部分がある。コスモスが神の世界、カオスが悪魔の世界だ。
 この世界観をよく表すエピソードとして、教会の鐘の音、というのがある。中世の城塞都市には、必ず町のど真ん中に教会がある。これは、教会の鐘の音の聞こえる範囲が教会の安全保障ラインだ、という考え方から来ている。つまり、鐘の音が聞こえる範囲はコスモスで神の世界、聞こえない森の中はカオスで悪魔の世界、ということなのだ。森の中のことに神様は責任を持ってくれない。
 実際、中世ヨーロッパの都市は鬱蒼とした森の中にぽつんと穴があいたように、とこだけ切り開いて町を作っている。一歩町から外へ出ると悪魔の世界という考え方も自然なことかもしれない。『ドラクエ』で町を離れるとモンスターたちが徘徊する平原というのも、実はこういった考え方がもとになっているのだ。
 こういう中世の世界観の中で科学は生まれた。
 もともと科学は森とか海とか植物とか、そういった魔の世界を研究してその中に秩序を見つけ出してコスモスにする、という行為だったのだ。科学は「魔の世界」に光を当てて、「神の世界」に取り戻す、という宗教的戦いだった、ともいえる。
 こうやって生まれた科学を中心とするメインカルチャーは秩序だっていること、論理だっていることがもっとも大切とされる。

岡田斗司夫著『オタク学入門』新潮OH!文庫 2000年 pp.341-343

 以前、フランスの版画家集団アトリエ・アルマーのアーティストたちと話したことがある。彼女たちはフランス政府から援助を受けながらアーティストとして活動している。アトリエはナポレオン時代に要塞だった建物を改造したもの、日本の美術展への出展も政府後援だった。いわゆる、「ちゃんとしたアーティスト」なわけだ。そんな彼女たちに僕は、「マリオやソニックなどのコンピューターゲームを、アートとしてどんなふうに評価しているか?」と聞いた。

 (中略)

「ゲームはアートじゃない。うちの子もゲームが好きで、放っておくとゲームばかりやりたがる。だからゲームは日曜日に1時間だけと決めている。日曜日は家族で子供を美術館や博物館に連れていって、アートとは何かをちゃんと教えている」
 僕は「これだから教養のない人は」という目で見られてしまった。彼女たちにしてみれば「アート」とは教養として学ぶべきものなのだ。けっして子供たちが自分から自然に飛びつくような「おもしろい」ものではない。その「おもしろさ」と、いわゆるアカデミックな世界の「アート」とは何の関係もない。本来、関係ないからこそ、「アートは教養として学ばないと身に付かない」ものなのだ。

 (中略)

 彼女たちが子供に教えようとしている「本格的・正統的文化」とは、メインカルチャーと呼ばれているものだ。メインカルチャーとはおおざっぱにいうと、アート、文学、科学、歴史、クラシック音楽といったアカデミックかつクラシックなもの。もっと平たくいうと大学で昔から研究してきたようなもののことである。
 彼女たちが所属しているヨーロッパ文化圏では、メインカルチャーを身につけるのが当たり前である。それも出来ない人は「クラスが低い」とされてしまう。いまだ階級社会の色合いを強く残しているヨーロッパでは、「メインカルチャーを身につけず、自ら階級を下げる」なんてことは半分自殺行為のようなものなのだ。

岡田斗司夫著『オタク学入門』新潮OH!文庫 2000年 pp.336-339

 太宰府市戒壇院の本尊盧舎那仏をまつる仏殿に二枚の板書が懸けられ、それには一字もおろそかにしない謹直な書が書かれている。その作者が仙厓義梵であることに多くの人は驚くかもしれない。
 仙厓といえば天真爛漫に見える「無法」と自ら称する禅画、戯画をすぐに思い浮かべるからである。しかし、この真剣な書を見ると仙厓の本来の禅僧としての姿や、画いた戯画にも深遠なものがあるように思えてならない。
 仙厓に絵の手ほどきをしたのは、京都出身の斎藤秋圃といわれる。
 秋圃は京阪で人気を博していた絵本作家で、いくつかの絵本が残される。なかでも「葵氏艶譜」は大阪新町の郭の裏側を描いたもので、入浴する芸妓や飲み過ぎて庭にもどす芸妓の姿などをユーモアあふれる表現と洒脱な描写で描き、そのその評価はたいへん高い。

朝日新聞福岡本部編『博多町人と学者の森〜はかた学6〜』葦書房 1996年 p.182

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