世の中には、自分に優しくする事を強要する人も居れば、呼吸をするが如く受け容れる人も居るし、戸惑いながらもどうにか受け取ろうとする人、そしてそれを許さない人も居たりする。僕はそれらが変化するのを見届けた事は未だない。
世の中には、自分に優しくする事を強要する人も居れば、呼吸をするが如く受け容れる人も居るし、戸惑いながらもどうにか受け取ろうとする人、そしてそれを許さない人も居たりする。僕はそれらが変化するのを見届けた事は未だない。
取り敢えず自分の為に出来る幾つかの事柄。
どれも生きて行く上で基本的な事ばかりである。しかし、自分で自分をどうする事も出来なくなった時、振り返ると、これらの事柄の幾つかがお座なりにされている事に気付く。生活を続けて行く中で、少しずつ失ったものを意識して取り戻さねばならない。
太陽の光を浴びる事と水に触れる事と身体を動かす事は、凝り固まった身体を解し、自分の内部に注視されていた意識を僅かでも外に向ける事が出来る。
水に触れるのは、海や川で身体を水に浸らせても良いし、それが出来る環境でないのなら、湯船に浸かったりシャワーを浴びるのでも良い。言ってしまえば、雨に打たれるのでも良い。
太陽の光を浴びる事と身体を動かす事は、身体を温める事にも繋がる。血流が鈍れば身体冷えていき、意識は沈滞するように思われる。食べる事や眠る事も、同じような事が言えるかも知れない。
これらの事をする前にやる事があった。但しこれは、事がとても深刻である場合。
人でも物事でも。既に手にしているのなら、手放す。これを手にしていると自分自身を守れない。しかしこれは取り敢えず危機を脱する為の応急処置でしかないので、恒常的な話ではない。勿論、これが全ての人に当てはまる話だとは思っていないし、もしかしたら私だけに当てはまる事なのかも知れない。
もうずっと以前に、深夜のテレビ番組で放映されていた(と思しき)アニメの話。その時僕は既に眠気で朦朧としていたのだが、何気なしに点けたテレビでアニメーションが流れていた。特に絵が気に入った訳でもなく、そのストーリーだけが記憶にいつまでも残っている。
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或る雄の子犬が主人公の話で、彼がいつもの散歩の途中でスケートボードを見つける。彼は興味津々で、恐る恐るそのボードに飛び乗る。ボードを坂道を下り始め、段々スピードを増していく。彼はそのスピード感に有頂天になった。こんなにも素晴らしい気分になれる事に喜びを感じていた。
そこでとんでも無い事が起きる。彼が予てから思いを寄せていた雌犬が、横道から飛び出してきたのだ。坂道はまだまだ続き、このまま行けばスピードは更に上がって、大好きな彼女に衝突してしまう。しかし彼にはボードを止める方法が判らない。
彼は必死で祈った。自分が消えてしまう事を。大好きな彼女に怪我をさせるくらいなら、いっその事消えてしまいたいと。
ボードが更にスピードを上げ、彼女にもう少しでぶつかるというその瞬間、彼は怖くて目を閉じた。
再び目を開けた彼は、熾烈な太陽の光が降り注ぐ砂漠に居た。そして自分が、亀の背中に乗っている事に気付いた。
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僕が覚えているのはここまで。恐らく眠ってしまったのだろう。後から幾ら考えても、それがどの放送局で、どの番組であったのか思い出せない。記憶も酷く曖昧だ。冒頭に「思しき」と書いたのは、もしかしたら自分が見た夢かも知れないと思っているからだ。
あれは一体どういう話だったのだろう。大好きな雌犬を自分自身から守る為に、自分を消してしまった雄犬は、あれからどう生きたのだろう。今でも気になって仕方がない。
雪をモチーフにした曲と言えば、僕はこの曲を思い出す。Cornelius の1st アルバム「 The First Question Award 」に収められた「 Silent Snow Stream 」。小沢健二の書く詩はかなり好きだが、小山田圭吾の書く詩は余り好きではない。しかしこの曲の詩は好きである。楽曲で言うのなら小山田圭吾の作る曲の方が好きなのだが。
昼過ぎに聞こえるヘリコプターの音を
僕は聞きながら悪い夢ばかり見てる
遠く吸い込まれるいらだちの声
きっと正しいのはこの世界だけだろう
真夜中にゆっくりと降り出した雪の中へ
僕達の声が消えてく
降りそそぐ 静かすぎる雪の中へ
いつ頃までだろうか。昔は、全ての事を知らなければ気が済まなかった。今はもう、それはない。知ろうとすればする程、何処かで誰かの悪意らしきもの(若しくはそう思えてしまうもの)に突き当たる。とても嫌な気分になるし、暫くその事に捕らわれてしまう。つまりは、猜疑心の塊となり、何もかもから距離を置いてしまうようになるのだ。もうそんな事はしたくない。どうせ全てを知る事が出来ないのであれば、何も知らない方がマシだ。
負の感情は、それを受けた者にも負の感情を芽生えさせ、やがては連鎖を生む。
雪の降る日は、出来れば微かに光を残す空であって欲しい。空を見上げ、その先に見届ける物が無いにしろ、その視線を吸い込めるだけの色は蓄えていて欲しいのである。
というタイトルで、白州正子が「夕顔」の中に文章を書いていた。
日本の神さまは三人一組になって生まれる事が多く、真中の神さまは、ただ存在するだけで何もしない。たとえばアマテラスとツキヨミとスサノオは「三貴子」と呼ばれるが、アマテラスは太陽(天界)、スサノオは自然の猛威(地下の世界)を象徴するのに対して、夜を司るツキヨミだけは何もせず、そこにいるだけで両者のバランスを保っている。次のホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホイリ(山幸彦)の三神も同様で、真中のホスセリだけは宙に浮いていて、どちらにも片寄らない。いわば空気のような存在なのである。
そんな神話を紹介していたが、それが何処から来る話かというと、深層心理学者の河合隼雄が「中空構造」という臨床士の立場を著す表現として用いた言葉があるが、その分かりやすい例として上げているのである。
若いときは、自分で相手の病を直そうと思って一生懸命になった。だが、この頃は、自分の力など知れたもので、わたしは何もしないでも、自然の空気とか風とか水とか、その他もろもろの要素が直してくれることが解った。ただし、自分がそこにいなくてはダメなんだ。だまって、待つということが大事なんですよ。
当時の河合氏の見解に拠れば、日本の若い医師や海外の医師は、自分でやっきになってクライアントを治そうと試みる人が多いそうで、自分の考えが全てであろうはずもなく、一つの考えに過ぎないと言っている。
昔、或る女性との別れの際に「そこに居てくれるだけで良かったのに。」と言われた気がする。(別れの際だったかどうかが、どうにも曖昧だが)そんな時に今更な事を言われても、僕としてはどうしようもない。それに、どうやら僕と関係した事を後悔しているらしき言動に腹を立てもしたのだが、今考えてみると、そういう事であったのかも知れないと思う。何も彼女が病に伏していたのだとは思わないが、彼女にとって、僕が何かの支えになっていたのかも知れない。しかし、結果として僕は立ち去ってしまった。その事を後悔はしていないが、悪い事したな、とは少し思う。
但し、家族でもないし、第三者的な治癒者でもない僕が、そのままずっと彼女の傍に居続けられたとはとても思えない。そんな事を求められても、浮き世に塗れ、人並みの情を欲する僕は困るのである。もしかしたら、遠くから眺める事くらいは出来るのかも知れないが。
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