DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 黒田氏は博多町人を姫路に遣わし、播州一宮伊和明神のお祭りの踊りをみせた。年の暮れの例祭で行われる悪口祭も見学させたらしい。井原西鶴が『世間胸算用」の中で京都の悪口祭について、「都の祇園殿に、大年の夜けづりかけの神事とて、諸人詣でける。神前のともし火くらふしてたがひに人㒵の見えぬとき、参りの老若男女左右にたちわかれ、悪口のさまざま云いがちに、それはそれは腹かかへる事也」と書いている。当時悪口祭は各地でおこなわれ、庶民が神社の暗やみの中で、日ごろのうっぷんを思う存分はらし、罵倒しあい、ストレスを解消した。
 陽気で血の気の多い博多町人は祭り好き。博多町人の対応に悩んでいた藩は、博多町人把握の一策として、無礼講の悪口祭つまり「にわか」を奨励した。毒舌の中に民意を把握しようというのが、黒田氏のねらいだったようだ。もっとも藩への痛烈な批判がすぎて、流罪となる町人も出たという。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.140-141

 天下分け目の関ヶ原の合戦から三ヶ月ほどたった慶長五(一六〇〇)年一二月八日、黒田長政は家臣を遣わして、小早川隆景・秀秋が二代にわたって居城とした名島城を受け取った。長政は新しい任地と決まった筑前に入り、途中飯塚の大養院に寄り、同月十一日に名島城に入った。翌年元旦、如水・長政父子はこの城で家臣らの年始の礼を受け、それぞれに恩賞地を与えた。二人はさっそく名島城に代わる新しい城の建設地の物色を始めた。名島城は三方を海に囲まれて要害としては申し分ないが、境地が片寄って城下が狭く、平穏な政治が出来にくいというのが、新しい用地物色の理由であった。大藩にふさわしい立派な城郭と広々とした城下町の建設ーーそれが長政らが画いた構図であった。その構想は、名実ともに九州の雄たらんとする、近世の大大名黒田氏ならではのものと考えられる。
 候補地は箱崎、荒津の山、住吉、福崎の四ヶ所であったが、福崎が長政らの心にかなった。この土地の地名を黒田氏の郷里(現在の岡山県邑久郡永船町福岡)にちなんで「福岡」と命名したことはよく知られている。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.127-128

 天下取りという形で家康に花を持たせた如水・長政父子は、九州を避けてその外の地域でより広大な領地を与えようとした家康の申し出を断り、かねてからの予定通り、筑前をものにした。博多を持つ筑前は、天下に匹敵するものと考えてよいかもしれない。というより、あふれんばかりの知力があだになり、天下を逃した黒田氏は、博多を基軸に事実上の天下つまり中央政権を形成しようと考えたのだ。筑紫君磐井の反中央、反体制意識は、期せずして黒田氏に引きつがれていったのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.127

 応仁の乱(一四六七-七七)で京都が荒廃し、公家をはじめ多くの住民が戦乱をさけて地方に下り、文化の地方伝播に一役かったことは、よく知られている。大山崎離宮八幡宮の油神人の九州下向も、当然ありうることだ。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.66

 鎌倉時代末の日本と元の関係は、一口でいえば緊張状態にあった。第三次の元の襲来が予想されたからである。にもかかわらず、二章で述べた東福寺の造営料船の例もあるように、北条氏や寺社は盛んに貿易船を派遣し、日本に来た元僧たちは清新な空気を日本に吹き込むなど、文物交流は盛んであった。その中心地が博多だったのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.59

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