DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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散歩する少年、再び。

 ほぼ一年前のこの記事の続き。去年の夏頃からは、その少年の姿をあまり見かけなくなっていた。まったく見ない訳ではなく、たまには見かけていたので、時間帯を少し変えたりしているのだろうと思っていた。

 僕は今、一日おきに散歩を兼ねたウォーキング時々ランニングをやっているのだが、今朝はトレーニングではない散歩をしたかったので、いつもとは違うコースを遠回りに歩いてみた。(散歩コース参照)資材ゴミ置き場跡の手前で農道に入って堤防に突き当たり、未舗装の道を上流に向けて歩いて橋を渡り、今度は反対側の堤防の道を下流に向けて歩き、突き当たった道路を上って途中で農道に入り込み、これまで一度も歩いた事のない地域を探訪したりしていた。
 その後はいつものように神社へ参拝し、橋を渡って南へと進み住宅地に戻ってきた辺りで、東側から歩いてくる少年の姿が見えた。相変わらずに髪型で相変わらずの黒っぽいジャージ姿だった。去年は10代半ばくらいだと思っていたけど、今日見たら10代の終わりか20代初めかも知れないという印象。成長したのだろうか。途中からは、彼が僕の後を追う形になった。どうも僕の散歩コースと似通った道のりを歩いているようだ。しかし何故こんな時間に歩いているのだろうかと思ったが、考えてみれば、午後に見かけなくなったのは朝歩くようになったからかも知れない。憶測でしかないけれど、昼頃に起きる生活から朝起きる生活へとシフトしたのだろう。とすると、彼の状態が上向きになっているという事だろうか。そうだと良い。そうであるなら、何となく嬉しい。

 神経症者としてのダーガーは、永遠の思春期を病んでいた。社会的な関係を制限し、徹底してひきこもること。なるほど確かに彼は就労し、「社会参加」していたかも知れない。しかし私には、ダーガーが社会からみずからを完璧に隔離すべく、「就労」していたように思われてならない。もし就労していなければ、生活のために福祉施設を利用するか、あるいはホームレス仲間に身を投じるしかない。いずれの方向を選んでも、むしろ煩わしい対人交渉を余儀なくさせられる。社会的な向上心を放棄し、目立たない最低限の職業を維持することは、彼の存在をいっそう透明なものにするだろう。ダーガーはこうした「擬態としての就労」によって、みずからの聖域を完全に封印し得た。その結果として六〇年もの間、彼の思春期は保存され続けたのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 p.332

 戦闘美少女というイコンは、こうした他形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させうる、希有の発明である。小児愛、同姓愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズムその他さまざまな倒錯の、いずれの方角へも可能性を潜在させつつ、しかし本人はまったく無自覚なまま振る舞っている。彼女たちの存在は、「少年ヒーローもの」の対として受け取られ、さらにフェミニズムの文脈において十分に保護されるだろう。その倒錯性を指摘するような野暮は、いまどきの心理学者や精神科医に似つかわしい振る舞いとして失笑を買うだけだ。彼女たちの受容状況は、現代社会のーーとりわけ女性のーーありようを見事に象徴している。実際、そのような分析も部分的には可能なのであり、その視点から書かれた書物が歓迎されやすい状況もある。しかし私はそうした分析に、あまり関心を持つことができない。いまや虚構に現実の直接的な反映をみるといった素朴な分析こそが、「虚実混同」の典型的事例なのだ。このレヴェルに留まる限り、おたくの乖離したセクシュアリティを解読することは決してできない。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.311-312

「性」の図像表現について検討すべく、ポルノグラフィーを取り上げてみよう。言うまでもなくこの領域では、即物的で実用性の高い表現が偏重される。ロマンポルノが衰退し、アダルトヴィデオが隆盛をきわめるという流にも、簡便性と実用性の追求が見て取れる。

 (中略)

「ヘアヌード」が氾濫し、AV すらもなかば飽きられつつあるこの場所で、「ポルノコミック」の巨大な市場が成立するという不条理。さきにも指摘したように、このジャンルにおいても「アニメ絵」がただならぬ勢力を誇っている。日常的現実との対応関係からみるとき、これほど非-現実的な絵柄もない。それにもかかわらず、このような表現がポルノという実用的な次元において選択され、流通すること。そして、そうしたことが欧米ではまったく考えられないということ。おそらくこの対比は、重大な意味をはらんでいる。
 もちろんここにも、歴史的背景はある。ロンドン大学ブルネイギャラリーのタイモン・スクリーチ氏によれば、江戸時代に大量に描かれ流通した「春画」は、庶民の自慰のために用いられたという。
 もしそうであるとすれば、われわれはまたしても、漫画・アニメのルーツを江戸時代に見出すことになる。描かれたものによって性欲を喚起し、処理するという「文化」。そうではなくて、われわれはここにおいて、「描かれたものの直接性」という問題系にゆきあたったのだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.304-306

「検閲」について考えるなら、この点はいっそうはっきりする。日本的空間の検閲者は、表現の象徴的な価値には概して無関心のようだ。性器がまるごと描かれるようなことさえなければ、どのような冒瀆的な画像であろうと公表できる。しかし西欧的空間においては、図像はその象徴的な価値に応じて検閲される。性器が映るか否かといったトリヴィアルな問題ではなく、ともかく図像における冒瀆的あるいは倒錯的な要素が厳しい注目に曝されるのだ。

 (中略)

 この対比からまず指摘しうることは、次のことだ。西欧的空間における図像表現は「象徴的去勢」を被るが、日本的空間においてはせいぜい「想像的去勢」しか存在しないということである。たとえて言えば、西欧的空間ではペニスを象徴するあらゆる図像が検閲されるが、日本的空間においてはペニスそのものさえ描かなければ、何をどのように描いてもよい。私はそうした皮肉な意味で、日本のメディアはもっとも表現の自由に開かれていると考える。そして問題は、むしろこの「自由」のほうにあるのではないか。
 日本的空間においては、虚構それ自体の自律したリアリティが認められる。さきにも触れたように、西欧的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。さまざまな禁忌は、その優位性を確保し、維持するために持ち込まれる。例えば性的倒錯を図像として描くことは認められない。虚構は現実よりリアルであってはならないからだ。そのためには、虚構があまり魅力的になりすぎないように、慎重に去勢しておく必要がある。それがさきに述べた「象徴的去勢」ということだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.300-302

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