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A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sociology (page 7 of 29)

 ひきこもり事例の治療は、なぜなされなければならないのでしょうか。社会学者のタルコット・パーソンズという人が、病者の権利について、次のようなことを述べているそうです。「病者は労働を免除され、治療を受ける権利がある。また病者の義務とは、治ろうとする意志を持ち、治療者に協力することである」。そう、健康な成人の義務が労働であるとするなら、病気にかかった成人の義務は「治療努力をすること」なのです。このように断定することで、素朴でしっかりした「臨床の視点」を定めることが可能になります。「治療主義」との批判はもとより覚悟の上です。私は一人の臨床家として、このような基本姿勢のもとで、社会的ひきこもり事例と向き合ってきました。そしてこの間、基本姿勢を変更する必要を感じたことは、ただの一度もありませんでした。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 p.118

 私はよく、「ひきこもり」の治療を成熟の問題と結びつけます。しかし「成熟とは何か」とあらためて問われると、これはまたきわめて難しい問題です。精神医学、とりわけ精神分析の分野では、まさに「成熟」は一大テーマです。しかし本書では、ごく実用的な視点から、成熟のありようをごく簡単に述べておきたいと思います。私なりの「成熟のイメージ」は、次のようなものになります。「社会的な存在としての自分の位置づけについての安定したイメージを獲得し、他者との出会いによって過度に傷つけられない人」。もちろんこれは暫定的なものですが、おおむね私は、患者さんが最終的にこうあってほしいという理想像を持ちつつ治療に当たっています。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.113-114

 これまで述べてきたように、社会的ひきこもりの状態にある人は、強い葛藤を感じていることが多いのです。こうした葛藤は、さまざまな精神症状につながりやすいことも、これまでみてきたとおりです。まず、こうした症状から悪循環が生じます。対人恐怖や脅迫症状、被害念慮などは、いっそう社会参加への壁を厚くします。しかも、こうした症状のほとんどは、社会参加ないし治療によってでなければ改善しません。次第に悪化する症状を抱えながら、いっそう深くひきこもらざるをえないところに、ひきこもり事例の最初の不幸があります。

 (中略)

 こうした悪循環をとどめるのが、通常であれば家族や他人との関わりなのです。現代ではアルコール依存症などの嗜癖患者が、自分の力だけで立ち直ろうとする努力は、ほとんど無意味とされています。それは「自分の靴紐を引っ張って自分の体を持ち上げようとする」努力にたとえられます(G・ベイトソン)。嗜癖患者の治療には、家族の指導と自助グループへの参加という組み合わせが、もっとも一般的なコースになりつつあります。つまり、家族や他人との関わりです。悪循環の源が自分自身にあるのなら、他人の介入を受け入れつつ「治療」を進めることが、どうしても必要であること。この「常識」は、社会的ひきこもり事例の治療にも当てはめることができるでしょう。彼らがひきこもり状態を抜け出せないのは、まず第一に、こうした「他人からの介入」を何よりも嫌うためでもあります。逆にいえば、他人との関わりを受け入れる決意を十分にかためた事例は、ほぼ例外なく社会復帰が可能になるのです。この臨床的事実からも、この問題が個人病理の視点からだけでは到底対応しきれないことが判ります。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.102-104

 私は以前から、海外の精神科医たちが、こうした「ひきこもり」問題をどのように考えているかに興味がありました。幸い、インターネットの普及で、さまざまな国の精神科医とも手軽にメールを交換できる環境が整いつつあります。さっそく私は、いくつかの国の大学精神科、あるいは精神病院や学会などのホームページにアクセスし、メールを出してみました。

 (中略)

 フランスの精神科医、デニス・ルグア氏は、このような事例はフランスには存在せず、日本文化や日本的生活様式に関係していると述べています。またやはり精神科医のルネ・カソー氏は、それは日本的文脈における社会恐怖ではないか、と述べています。しかし、匿名のある心理学者は、次のような、注目すべき意見を持っています。
 ーーフランスでも状況は同じです。社会的ひきこもりは中学の一年くらいからみられるようになります。彼らの多くはホームレスになるため、果たしてどのくらいの事例が存在するのかは判りません。父親の権威をなくした崩壊家庭が一般的です。精神病のようにすらみえます。彼らはどこから来たのでしょう? 彼らは他人をあてにするばかりで、みずから動こうとはしません。フランスでは、彼らに関する論文をみたことがありません。私たちはやっと、問題の端緒についたばかりなのです。ーー

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.88-90

「退行」は、これまで述べてきたような症状とは、ちょっと意味が異なります。これは症状というよりは、精神症状の生じてくるメカニズムの説明のための言葉です。本来は、成長した個体が、発達段階のより未熟な状態に逆戻りすることを意味していますが、ここではごく簡単に「子ども返り」の意味で用いています。

 (中略)

 ひきこもり状態は、この退行をしばしば引き起こします。個人的な仮説ですが、これはある意味で、彼らが「健康」であるために生じる現象だと思います。誰しもある限られた空間で、他人に頼らざるをえない状況下に長くおかれると、程度の差はあれ退行を起こすものです。いちばん判りやすい例は入院生活です。ある期間入院生活が続いた患者さんは、相当の社会低地位のある人でも、意外なほど幼稚だったりわがままだったりする側面をのぞかせます。これは自然な反応であって、まったく退行することができない人がいたとしたら、それはそれで問題でしょう。

 (中略)

 退行が問題なのは、これがしばしば暴力につながるためです。家庭内暴力のほとんどは、退行の産物です。これは子どもが親に振るう暴力に限りません。夫が妻に振るう暴力も、退行の産物です。その暴力が退行によるものかどうかをみわけるのは簡単です。その人が家族以外の人に対しても暴力的に振る舞うか否かをみればよいのです。家族以外には紳士的で、家庭では暴君という人は、この退行を起こしているとみてよいでしょう。また、常に暴力的な人は対抗的ではないかというと、そのような人は単に人として未成熟であるとみなすことができるでしょう。

斎藤環著『社会的ひきこもり〜終わらない思春期〜』PHP新書 1998年 pp.48-50

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