DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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Sayuri / Rob Marshall

 公開前から、主役を日本人が演じない事など、色々な物議を醸し出していた映画。僕としては、その事については何ら問題視していなかったのだが、結局ロードショーには行けなかった。
 観た感想は、カメラワークにしても人の動きにしても、やはりハリウッドの映画だなあという事。日本文化の時間の感覚、つまりは「静」を随所に織り込む感覚は皆無である。それに、やたらと女性だけが格好良く、制作がスピルバーグだから仕方がないが、ある種サクセス・ストーリーに仕上がっている。どう見てもアメリカ映画である。要は日本の閉じられた文化を異文化の目で覗き込んだだけの物語だ。
 かと言って、僕はそういうのが嫌いではない。例えば、外国諸国で紹介されている浮世絵の冊子。繊細な線や穏やかな色彩の上に大きく太く黒いゴシック体で英文のタイトルが銘打ってある。些か暴力的なその理解の仕方に私は不快感どころか、好感を持っている。何故だかは解らない。何かしらの力を感じるのだ。

 映画とは関係ないが、アーサー・ゴールデンの原作本出版時に色々と騒動が起きていたようだ。それを知ったのは Wikipedia での記述。よく耳にする話と言えばそうなのだが、此処を読んでいると未読の原作を読む気が失せてきた。それならば、岩崎峰子の自伝を読んでみたい。

夢二の写真

 本屋に寄った際に偶然見かけた「竹久夢二写真館-女-」。その表紙の写真(掲載した画像とは違うのだが)が気になって手に取ってみる。パラパラと捲る。非常に気に入った。これまで竹久夢二の絵にさして興味を持った事はないのだが、写真はとても良い。驚いた事に、写真は竹久の描く絵そのものだった。あの絵は空想の中で捏造した世界であるのではなく、傍に在るもの(女)を描いたに過ぎないのだ。絵の主軸となる諦念感は、やがて戦争へと向かう社会の写し絵ではなく、極個人的な日常の描写であったのだろうか。

若冲と江戸絵画展 / 東京国立博物館

 若冲と〜と銘打つくらいだから、だいたい半々くらいだろうと思っていたら、思いの外若冲の絵は少なかった。若冲の絵だけ観たいのなら三の丸尚蔵館の若冲の動植綵絵30幅の展示を観た方が良いように思う。かといって、他の絵が気に入らなかった訳ではない。特に僕の気に入ったのは、葛蛇玉筆の「雪中松に兎・梅に鴉図屏風」。良い絵は色々とあった。
 ひとつ、絵の見せ方に(僕が知る限りでは)新しい試みがあった。数々の屏風絵に当てる照明は、低い位置から数段階の調光を施され、様々な明るさで絵を観る事が出来る。個人的には明るすぎるのは良くないと思う。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」にもあるし、以前に観たテレビ番組で紹介されていた米国の若冲コレクターは、若冲の絵を観る為に和室を造り、夜、篝火を焚いて若冲の絵を鑑賞していた。「 All for Jakuchu. 」と彼は言っていた。考えてみれば当然である。その絵を描いている時と同じ状態で観るのが、絵は一番美しい。

プライスコレクション 若冲と江戸絵画展 オフィシャルサイト若冲と江戸絵画展 コレクションブログ

生の根幹としての食

 環境goo の中で見つけた記事

 杉本雄・栄子さんのご夫婦は、半農半漁の鴛鴦夫婦である。上品な味わいの無添加いりこそれに三十年近くも無農薬の夏みかんやたまねぎを作っている。故郷に舞い戻った息子さんたちと、かなりの量を生産する。出会ったその日、五トン舟で漁から舞い戻った栄子さんが、水俣病で十年も寝たきりだったとは、とても信じられなかった。輝くような生命力に満ちていた。なぜ、という愚かな疑問に、彼女は答えた。
「食べもので病気になったとですから、食べもので直すとです。」

 最後の言葉を読んで、とても嬉しくなった。こんなにも希望を感じさせる言葉は滅多にお目にかかれない。短絡的な考えかも知れないが、正しい食を保っていれば、人は健常で居られるのだ。老いを止める事は出来ないのだろうが、少なくとも、十分な人生を享受する事が出来るのだ。もしかすると(飛躍した妄想だけれど)精神的疾患も食で治す事が出来るのではないだろうか、などという事まで考えてしまう。

追記2006.06.01 : 上記の記事を書いた島村菜津というライターが書いた「スローフードな日本!」という本の中にも、この夫婦や水俣の話が出てくる。その中で気になったのは「地元学」という言葉。水俣市の市役所員、吉本哲郎氏が提唱する水俣市を再生をさせる方法論(本人曰く哲学)である。自らの生きる土地(場所)を知り、その中で可能な環境サイクルを構築する事。「ないものねだりから、あるもの探し」へ。「地元」という感覚で言うと、生まれ育った故郷が私にはそれに当たる。しかしながら、生憎と故郷を離れて10年を遙かに超える。自分の立ち位置、つまり生活している場所は此処である。私が知るべきはこの土地である。「あるもの探し」という考えが、自分が写真やなんかでやっている事に近いので、何となく嬉しくなった。くるりの「 World’s end super nova 」という曲の中にこういう歌詞が在る。「同じ望みなら ここで叶えよう」いつの頃からか、この考えが染みついてしまった。

ツキヨミの思想

 というタイトルで、白州正子が「夕顔」の中に文章を書いていた。

 日本の神さまは三人一組になって生まれる事が多く、真中の神さまは、ただ存在するだけで何もしない。たとえばアマテラスとツキヨミとスサノオは「三貴子」と呼ばれるが、アマテラスは太陽(天界)、スサノオは自然の猛威(地下の世界)を象徴するのに対して、夜を司るツキヨミだけは何もせず、そこにいるだけで両者のバランスを保っている。次のホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホイリ(山幸彦)の三神も同様で、真中のホスセリだけは宙に浮いていて、どちらにも片寄らない。いわば空気のような存在なのである。

 そんな神話を紹介していたが、それが何処から来る話かというと、深層心理学者の河合隼雄が「中空構造」という臨床士の立場を著す表現として用いた言葉があるが、その分かりやすい例として上げているのである。

 若いときは、自分で相手の病を直そうと思って一生懸命になった。だが、この頃は、自分の力など知れたもので、わたしは何もしないでも、自然の空気とか風とか水とか、その他もろもろの要素が直してくれることが解った。ただし、自分がそこにいなくてはダメなんだ。だまって、待つということが大事なんですよ。

 当時の河合氏の見解に拠れば、日本の若い医師や海外の医師は、自分でやっきになってクライアントを治そうと試みる人が多いそうで、自分の考えが全てであろうはずもなく、一つの考えに過ぎないと言っている。

 昔、或る女性との別れの際に「そこに居てくれるだけで良かったのに。」と言われた気がする。(別れの際だったかどうかが、どうにも曖昧だが)そんな時に今更な事を言われても、僕としてはどうしようもない。それに、どうやら僕と関係した事を後悔しているらしき言動に腹を立てもしたのだが、今考えてみると、そういう事であったのかも知れないと思う。何も彼女が病に伏していたのだとは思わないが、彼女にとって、僕が何かの支えになっていたのかも知れない。しかし、結果として僕は立ち去ってしまった。その事を後悔はしていないが、悪い事したな、とは少し思う。
 但し、家族でもないし、第三者的な治癒者でもない僕が、そのままずっと彼女の傍に居続けられたとはとても思えない。そんな事を求められても、浮き世に塗れ、人並みの情を欲する僕は困るのである。もしかしたら、遠くから眺める事くらいは出来るのかも知れないが。

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