DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 日常の食料としていた鶏については六畜の一つとしながらも、実際の運用対象から外し、問題がないとした。残る五つの家畜ーー馬、牛、豕(豚)、犬が穢の対象になった。羊は日本にいなかったが、海外から天皇に献上された記録はある。六畜の死体に直接触れなくても、同じ建物や床下に死体があったら死穢になる。産穢も同じ。穢は伝染するとされていたので、触穢の人は外出もはばかられた。六畜の中でも、とくに問題を起こしたのが犬だった。犬の死、お産による穢れだけではなく、犬による咋い入れ(骨肉片持ち込み)も穢れとされた。朝廷から伊勢神宮への奉幣使派遣は、犬の死穢・産穢により、しばしば中止または延期された。
 清和時代は死も穢の対象とされたが、醍醐天皇の『延喜式』の時、狐は穢れから外された。その一方、鹿、猪を食うことが穢れになるかならないかが問題になり、朝廷は、鹿猪は六畜に準じて穢れの対象になるとした。これで朝廷、貴族社会での獣肉食の禁忌は決定的になった。昔の日本人が肉食を嫌ったのは仏教の影響だとよく言われるが、実際はもっと複雑な要素が絡み合っている。神道や陰陽道の影響も無視できない。以後、日本の社会はさまざまな形で、この制約にしばられることになる。

仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年 p.117

 日本は隋唐を模範にして律令国家を建設した。古代中国では、馬、牛、羊、豕(豚)、犬、鶏を六畜(六つの家畜)として法に定めた。家畜は使役に使い、食料になり、神への捧げものになる。人が所有する財産だからトラブルも起きる。そこで六畜の取り扱いやトラブル時の罰則などが定められた。律令国家を目指す日本にも当然、六畜の法と概念が入って来た。
「人を噛む畜産は(他人が見てもわかるように)両耳を切る」
「狂犬を殺さなければ笞三十」
「畜産がよその物を壊したらその減価を償え(弁償しなさい)」(『厩庫律』)
 このほか、こまかい規則がいろいろあるが、のちに朝廷や伊勢神宮で問題になった六畜の穢れに関する法律はまだ定められていない。
 平安時代の天皇は桓武、平城、嵯峨、淳和、仁明と続くが、平城を除く歴代天皇は大いに狩りを好んだ。狩りをするということは肉食をしていたということだ。死者の供養のため、世の中の平安祈願のため、動物たちを放生することはあっても、隋唐と同じように肉食と穢れは無縁と考えられていた。

 (中略)

 仁明の次はその子・文徳が天皇となるが、この時から天皇が直接、遊猟に出た記録が消えてしまう。さらにその子・清和天皇の時代から六畜による穢れの記述が続々と現れる。天皇の母は太政大臣・藤原良房の娘。天皇は幼少時、外戚良房のもとで育ち、九歳で即位した。良房は摂政となって政治の実権を握り、天皇の神聖化、清浄化を進めた。

仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年 pp.114-116

 神宮の奥深い森は、けものたちを拒絶している。清らかな川の流れも、けものを寄せつけない自然の水濠に見える。人の手によってつくられた堀や荒垣も周囲にめぐらされている。けものは清浄であるべき神域にけがれをもたらす。かつて神域にいることを許されたのは、唯一、天皇から贈られた神馬だけだった。神宮では魚鳥を飼うことさえ禁じられていた。

仁科邦男著『犬の伊勢参り』平凡社新書 2013年 p.110

 太宰府市戒壇院の本尊盧舎那仏をまつる仏殿に二枚の板書が懸けられ、それには一字もおろそかにしない謹直な書が書かれている。その作者が仙厓義梵であることに多くの人は驚くかもしれない。
 仙厓といえば天真爛漫に見える「無法」と自ら称する禅画、戯画をすぐに思い浮かべるからである。しかし、この真剣な書を見ると仙厓の本来の禅僧としての姿や、画いた戯画にも深遠なものがあるように思えてならない。
 仙厓に絵の手ほどきをしたのは、京都出身の斎藤秋圃といわれる。
 秋圃は京阪で人気を博していた絵本作家で、いくつかの絵本が残される。なかでも「葵氏艶譜」は大阪新町の郭の裏側を描いたもので、入浴する芸妓や飲み過ぎて庭にもどす芸妓の姿などをユーモアあふれる表現と洒脱な描写で描き、そのその評価はたいへん高い。

朝日新聞福岡本部編『博多町人と学者の森〜はかた学6〜』葦書房 1996年 p.182

 江戸時代には、どんな村にも神社があり、春には五穀豊穣を祈り、秋には感謝の祭りをした。神社は、村の安全・発展を村人と共同で願うものであった。ただ、中世ではどうかというと事情が異なってくる。この時代には、神社は在地領主である武士の氏神として、一族の結合や地域支配に役立てられていた。それが、戦乱や兵農分離などにより、武士がその土地、神社から離れたことから、神社は新たな保護者を地域の村落・農民に求めざるをえなくなったといわれている。
 それが江戸時代に入ると、このような中世以来広い領域にわたって権威を持ち信仰を集めた大・中の神社に加え、一村落もしくは数ヶ村を単位とした神社が、近世的村の村立とともに歴史の表舞台に出て来るのである。

朝日新聞福岡本部編『博多町人と学者の森〜はかた学6〜』葦書房 1996年 pp.130-131

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