DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: diary (page 5 of 32)

退屈に呑まれる季節

 やらなければならない事、やりたいと思っている事は山ほどあるのだが、何もする気になれないってほどではないにしろ、何だかぼんやりと過ごしてしまう時間が多い。おまけにいつも眠い。寝ても寝てもやはり眠い。鬱々とした気分という訳ではなく、ただ億劫で、いろいろな事が面倒に思えて来るのだ。こういうのが冬鬱というのだっけ。そう言えばこのところ休日も部屋に引き籠もっている事が多いから、日の光を浴びていないなぁ、とそんな事を考えながら寝転がっているのだ。

 ここ何年か暮れの帰省を止してしまっているが、帰った時に、茶の間で家族と喋ったりテレビを観たりするのに飽いてくると、大抵は縁側に何故か置かれている炬燵に深く潜り込んで、半ば横になったまま、雪見障子のガラス越しに見える冬枯れた庭をぼんやりと眺めて過ごしていた。冬は忙しいからそのせいなのか、寒さのせいで風邪が治りきっていないのか、いつもそうだった。
 家族がそんな状態の僕をどう思っていたのか、特に何か言われた事もないから解らないが、末の弟も帰省した時には寝てばかりいるから、同じように平生いつも疲れているからなのだろうと思っているようだ。しかし僕には特に疲れているという自覚はなく、強いて言えば、夏の暑さに疲れてしまうように、冬の寒さに疲れているというのはありそうな気がする。この頃では、暖かいものは全て正しく善きものであるような気さえしている。ただ、寒さはこれからなので、まださして飽いてはいないと思うのだが。

 それにしても、毎日寒くて眠い。

デトロイトのパン屋(再び)

 以前に書いた近所のパン屋が10月一杯で一旦店を閉め、先週末に新しい店舗で開業した。しかも何と僕の部屋から歩いて30秒ほどの場所に。

 店を閉める前に、店の中でレジの女性と客が話しているのを立ち聞きしたところに拠ると、新店舗はオーナーの自宅の一階を改築して、もっと手狭にやるつもりだとの事であった。喋っていたその女性は昔から居るので、僕はその人がオーナーなんだとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。それも今日解明し、オーナーは60代くらいの女性で、そう言えば前の店舗で時折見かけていた。
 そして手狭にするという新しい店舗は、店内の面積で言えば以前よりも若干広く、以前のようにフツーの町のパン屋然とした感じではなく、漆喰風の壁材と木材を多用した、欧州の何処かの町に在りそうな、今で言えば小洒落た内外装の店である。確かにパンの種類は少し減った気がするが、僕が想像していたよりもずっと充実した品揃えだった。商売を小さくするものだとばかり思っていたが、もっと前向きな判断に拠る移転であったようだ。

 因みに、あの白いCDプレイヤーはレジテーブル横の木製の台の上に居座っていて、レイ・チャールズのCDが立てかけてあった。

雑記

 ここ数ヶ月で改めて感じたのは、人は、僕が想像するよりもずっと自分の欲求に忠実で、その場の感情に従って発言したり行動したりする。それはもう驚くほどに。そんなにあからさまに行動して大丈夫なのだろうか。冷静に物事を判断するとか、そういう事は考えないのだろうか。と心配をしてみるものの、意外や世間は大した問題も起きずに進んでいく。

 さすがにこの歳だから、人のそういう部分を知らなかった訳でもないのに、この驚きと新鮮さは何だろうか。これまで、そういう場面に遭遇する事が少なかったのかも知れない。考えてみれば、僕は他人のそういう部分を何となく避けて生きて来たような気がする。何故避けるのかと言えば、それは面倒で疲れるからである。自分のものだけでも面倒なのに、他人のそれを受け止めるなんて至難の業だ。

 しかしこの頃では、波風の立たない人生などあり得ないのではないかと思い始めている。これまではどうにか穏やかに暮らせていたのかも知れないが、今後はそうもいかないのではないか。もしかすると波風あってこその人生なのではないか。そんな風に感じている。でもそれは単に、退屈しているだからなのかも知れない。よく判らない。

 そしてその昔、僕は波風立てて人に迷惑をかける側の人間だった事を思い出した。

中野駅で見かけた女

 8月くらいに、JR中央線に乗って吉祥寺から新宿へと向かっている途中、中野駅で停車した電車の窓から見覚えのある女を見かけた。線路脇の敷地を区切る擁壁の向こう側は緩やかな坂道で、その坂の途中で女は幼子を抱きかかえて立っていた。大きな布にくるんだ幼子の顔を覗き込み、あやすかのように顔をしかめてみたり、笑ったりしていた。僕はそれと気づいてからは、まじまじとその女の顔を見ていた。確かに見覚えはあるのだが、それが誰なのか全く思い出せなかった。
 少しすると、3歳くらいの男の子を連れた男が何処からか現れ、女に近づいて何やら話し始めた。恐らく、というか確実に夫なのだろう。同世代のように見えた。二人ともごく近所のコンビニにでも行くかのような気安い服装をしていて、買い物を済ませる為に駅の側まで歩いてきたという感じだった。

 間もなく電車は動き出してしまったので、僕が見たのはたったそれだけの光景だったのだが、もしかしたら僕が知ってるかも知れない人の、僕が全く知らない部分を偶然にも覗いてしまったという経験が、何やら行き場の無い、もやもやした感覚だけを僕に残す事となった。彼女は、かつて僕が電車でよく隣り合わせていたのかも知れないし、仕事で一時期同じ場所に居たのかも知れない。今をもって思い出せないところをみると、たぶんそんな感じですれ違っただけの人なのだろう。
 それでも、そんな彼女の姿を見て、僅かながらも嬉しく思う気持ちが沸いたのは一体どういう訳があるのか。関係を訪ねられればそれはもう全く関係なく、知っているかも知れないという恐ろしく曖昧な記憶しか存在しないのに。

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 と、此処まで書いて思い出した。似たような話をDVDで観た事がある。「週刊真木よう子」という番組の第4話、しかも話が出来すぎているがその回のタイトルは「中野の友人」である。内容を説明するのが面倒なので Wikipedia から引用すると。

 2度目の公務員試験に落ち、再びバイト生活に戻った岡田。バイト先ではつり銭泥棒に決め付けられ、役立たず扱いされる日々。そんな岡田は毎日バイト後に中野にあるゲームセンターのピンボールゲームでハイスコアを出すことに熱中していた。人気のないこのゲームだが、ある日一人の女がハイスコアを更新する。一方的にライバル心を燃やす岡田は、この女の忘れ物を拾い、親近感を覚えていく。

 こんな感じで進んでいく話だが、女はある日姿を消してしまう。そしてラストの場面で、その女がそれまでの姿からは想像し難い姿で主人公の前に現れ、そしてすれ違う。

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 そっくりである。エントリを此処まで書いて思い出すとは不覚。しかしせっかくなので載せておく。

聖なる空き地

 小学生の頃、ある夏の早朝に、僕は近所に在る草ぼうぼうの空き地で孵化したばかりの蝉を見た。隣地の人家のブロック塀に沿って雑草が高く生い茂っていて、その雑草の一様に真っ白な蝉が止まっていた。そんなものを見たのは初めてだったので、僕はハッとして、畏れながらも目を離す事が出来なかった。見慣れた成虫のカラッとした焦げ茶の蝉とは違い、ふくよかで湿り気を帯びた白い体躯は、異様で、気味が悪く、そうでありながらも何処か神々しく僕の目に映し出された。触れてみたいという欲求は当然芽生えたが、冒しがたいその姿に僕は手を伸ばす事が出来なかった。もし手を伸ばして掴んでしまったら、握りつぶしてしまうのではないかと己を訝った。僕はそのまま其処にしゃがみ込み、小一時間その白い蝉を見つめ続けた。

 そんな事書いてるうちに一つ疑問に思ったのは、小学生の僕が何故早朝に空き地へなんか行ったのかという事。今も昔も、早起きなんて決して好きではないはずなのに、その点がどうしても解せない。

 そしてつられて思い出した事に、恐らく同じ時期に僕はその空き地に自分の宝箱を埋めていた事がある。何故そんな事をしていたのか。当時は狭い借家に家族五人で住んでいて、彼らの目に触れぬ何処かに自分の大事な物を隠す必要があったのだろうか。今となってはその宝が一体何だったのか全く思い出せないが、自分の性格を鑑みると何かしら秘密を持ちたかったのだと思われる。
 その事で記憶に残ってるのは、土砂降りの雨の日に、僕は何故かその空き地で宝箱を掘り返していた。自分の事ではあるが、何の為なのかは知らない。恐らく。自分の宝が其処に存在する事を確かめたかったのだろう。そして、それと同じ理由で、早朝を選んで宝箱の無事を確かめに行った際に白い蝉を見つけたのではないだろうか。ただの空き地に過ぎないが、自宅と小学校、そしてそれを結ぶ通学路のエリアが世界の全てであった僕にとっては、空き地は特別な場所であったのだろうと想像する。

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