DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 毎年五月の三日と四日、博多の町は「博多どんたく」で祭り一色となる。しかし、そのにぎやかなパレードが繰り広げられているなかで、古い博多の町筋を、むかしながらの松囃子が通り過ぎていることは、案外見落とされがちである。
 松囃子は祇園山笠とともに、博多町人の歴史を生きてきた。
 那珂川と石堂川に東西を限られた十町(約一キロメートル)四方が中世以来の博多である。
 町は、流れと呼ぶ町筋によって構成され、川に沿って南北に走る縦町筋の東町流・呉服町流・西町流・土居町流と、東西の横町筋を基準とした洲崎流・石堂流・魚町流の七流に、新町流と厨子流が加わって、元禄年間(一六八八〜一七〇四年)には九流百十三町。一五八七年(天正一五年)豊臣秀吉が命じた博多復興以来のもので、多少の変動を経ながら、おおむね百町内外で江戸時代を推移してきた。
 津中最大の行事であった松囃子と祇園山笠は、いずれもその基幹となる七流を中心に運営されてきた。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.123-124

※石堂川は現在の御笠川である。(参考URL)

 大学院生のころだったと思う。天神の西鉄名店街の古書展で仮綴じの薄い小さい和本を二冊買った。私が古書展で掘り出し物らしい本を買ったのは、後にも先にもこれきりだったような気がする。
 そのうちの一冊が「筑紫富士夢物語」という題で、其鹿・菊左・濯綏という三人の俳人の旅をつづった、一八五〇年(嘉永三年)の紀行文だった。作者について詳しいことはわからない。
 三人の俳人は佐賀の人で、太宰府天満宮へ参詣するのが目的である。しかし、この短い紀行文の中で、作者が筆を多くさいているのは、博多の柳町のことである。
 彼らは虹の松原から、吉井、前原、今宿を通って博多に近づいてくる。「福岡を通り、博多綱場丁紅屋嘉二郎の旅宿に泊まり、夕食など仕舞ふて、市内見物と出掛」と、ここでも福岡と博多は区別されている。そして三人は、今の石堂大橋近くにさしかかるのだが、そこで大宰府に行くのとは違った道へ進んで行く。
「そこここと見廻り(此所より声をひくふして)石堂橋の近辺に至る。大宰府の道は右通りなるに、不意に左をさして三人、飛て行」
 三人は「名に逢、柳町」の遊里に行くのである。かっこでくくった部分には二行書きにして小さく書いてある。こんな書き方をするのだから、遊女屋に行くことにうしろめたい気持ちはあるのであろう。私にしても売春ということについては、さまざまに複雑な思いがある。ただ、江戸時代の遊里が、単に性のはけぐちとしてのみのものではなく、しばしば豊かな文化の土壌ともなっていたことは見逃せない。
 その頂点が江戸の吉原だが、地方においても、前に引いた佐藤元海の紀行文が福岡の繁栄を記すのに「娼家もあり」と言っているように、地方においては遊里の華やかさが、土地の活気や洗練を示す一つの基準ともなっていたのである。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.115-116

 博多の人が「どんたく」ということばを口にする場合、「あしたはどんたく」といえば、毎年五月三日と四日に行われる行事の名称であるし、「どんたくが通る」といえば、参加者や山車、曳台を指す。同じことばながら、ニュアンスが違う。どんたくということばはオランダ語 zondag の訛で、日曜、転じて休日のことであることはよく知られている。
 古き良き時代のどんたくは魅力があった。芸自慢にとっては年に一度の晴れの日である。どの店も売り場を開放して舞台を提供してくれる。終わればほめられ、酒をつぎ料理を与えて祝儀までくれる。祝儀など期待する博多っ子はいないはずだが、祝いうたってくれたのが嬉しく、受けた方では渡さないでいられなくなるのだ。
 なんの準備もなく街頭に踊り出す者も多い。今年こそ出まいと決めていても、その日になるとじっとしていられなくなるのが博多っ子。友人を誘ってなじみの料亭へ。芸者を呼んでもみがえす街頭に飛び出す。普通の日なら、ちょっとこいと引っ張られるだろうが、この日だけは道のまん中でどんなに跳ねても飛んでも叱られず、解放の醍醐味に浸ることができる。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.168-169

 黒田氏は博多町人を姫路に遣わし、播州一宮伊和明神のお祭りの踊りをみせた。年の暮れの例祭で行われる悪口祭も見学させたらしい。井原西鶴が『世間胸算用」の中で京都の悪口祭について、「都の祇園殿に、大年の夜けづりかけの神事とて、諸人詣でける。神前のともし火くらふしてたがひに人㒵の見えぬとき、参りの老若男女左右にたちわかれ、悪口のさまざま云いがちに、それはそれは腹かかへる事也」と書いている。当時悪口祭は各地でおこなわれ、庶民が神社の暗やみの中で、日ごろのうっぷんを思う存分はらし、罵倒しあい、ストレスを解消した。
 陽気で血の気の多い博多町人は祭り好き。博多町人の対応に悩んでいた藩は、博多町人把握の一策として、無礼講の悪口祭つまり「にわか」を奨励した。毒舌の中に民意を把握しようというのが、黒田氏のねらいだったようだ。もっとも藩への痛烈な批判がすぎて、流罪となる町人も出たという。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.140-141

 天下分け目の関ヶ原の合戦から三ヶ月ほどたった慶長五(一六〇〇)年一二月八日、黒田長政は家臣を遣わして、小早川隆景・秀秋が二代にわたって居城とした名島城を受け取った。長政は新しい任地と決まった筑前に入り、途中飯塚の大養院に寄り、同月十一日に名島城に入った。翌年元旦、如水・長政父子はこの城で家臣らの年始の礼を受け、それぞれに恩賞地を与えた。二人はさっそく名島城に代わる新しい城の建設地の物色を始めた。名島城は三方を海に囲まれて要害としては申し分ないが、境地が片寄って城下が狭く、平穏な政治が出来にくいというのが、新しい用地物色の理由であった。大藩にふさわしい立派な城郭と広々とした城下町の建設ーーそれが長政らが画いた構図であった。その構想は、名実ともに九州の雄たらんとする、近世の大大名黒田氏ならではのものと考えられる。
 候補地は箱崎、荒津の山、住吉、福崎の四ヶ所であったが、福崎が長政らの心にかなった。この土地の地名を黒田氏の郷里(現在の岡山県邑久郡永船町福岡)にちなんで「福岡」と命名したことはよく知られている。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.127-128

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