DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: diary (page 4 of 32)

Light my fire

 昔、小学校高学年の頃の話。いつの間にか仲良くなっていた友人の家が神道系の教会を営んでおり、そこの信者やその子供達が集って行われる催しに時折参加していた。僕の家族は誰一人そこの信者ではなかったのだけれど、何故かしら僕は呼ばれていた。当時はその教会の息子の友人だからだとばかり思っていたのだが、実は、町に初めてその教会が設立される際に、僕の祖父が先代の先生(とその教会では呼ばれている)の家族共々、色々と世話をしたらしい。その話はずいぶん後になって母から聞かされたのだが、恐らくそういう経緯があって僕は気を遣われていたのだろう。でもあまあ、そんな事は本筋と関係ないのでどうでも良い。

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 ある年、夏休みを利用してキャンプが計画された。何処へ行ったのかはまるで思い出せないが、適当なその辺りの山間だったのだろう。僕が育ったのは平野部だったが、その周囲には山々が連なっており、車を走らせればキャンプ施設は結構あちこちに在った。
 その時は、教会の友人の他にも同級生が何人か(その時はかなり大人数が参加していたので、僕の他にも非信者を呼んでいたようだ)居たせいもあって、結構楽しいキャンプだった憶えがある。とは言え、この催しについての記憶はかなり薄く、殆ど一つの場面しか憶えてない。それを今から書く。

 昼間さんざん暴れて、陽が落ちては美味しい夕食(カレーだったと思う)を食べ、それを終えればもうたいしてする事はない。適当な間隔で据えられたテントに潜り込んで、ランタンの灯りを頼りにお互いの顔を確認しながらお喋りに講じるだけである。とは言え、一体何の話をしていたのか。人間というよりもまだ、動物に近い生き物である小学生男子にたいした話がある訳もない。どうせ学校での噂話にでも花を咲かせていたのだろう。それか、それ以前に話もせずにただふざけ合っていただけかも知れない。そんなものだ、小学生男子なんて。
 ところが、その幼稚な夜に未知なる存在が訪れた。僕の知らない信者の娘とその友人である。その二人が一体どういうつもりなのか男子の森に前触れも無く侵入して来たのだ。僕は全く知らない人(しかも年上の女の子)の登場にものの見事に動揺し、口もきけないでいたのだが、教会の息子である友人と、もう一人の友人には共に二歳上の兄があり、そのどちらもが侵入者である女の子達と同級生だかクラスメイトだかで面識があるようだった。まあ、それ以前に教会内で何度か顔を合わせた事があるのだろう。とにかく、二人は臆することも無く(しかし幾らかは興奮気味に)その夜の侵入者と喋っていた。
 僕はと言えば、相変わらずムッツリ黙り込んだまま会話を聞き流していたと思う。そりゃあ仕方ないだろう。そんな経験した事がなかったのだから。ここでひとつ説明を加えておくが、侵入者の二人は共に美しく、片方は黒髪で目が大きく、唇の厚い元気な女の子。片や一方は全体的に色素が薄く、顔の造作もやや冷たい感じのどちらかと言えば控えめな女の子であった。彼女達のそういった様子も相まって、僕はとにかく緊張して黙り込んでいた。ところが、である。

「あんた大人しかねぇ」

 一言も喋らない僕を気遣ったのか、前述の後者に当たる女の子が突然僕に話しかけてきたのだ。しかしそこではない。重要なのはそこではなく、その時の彼女の所作である。彼女は僕の顔を見据えたまま、なんと僕の剥き出しの膝小僧を撫でてきたのである。僕は飛び上がらんばかりに驚いた。はずなのであるが実はその辺りの事はよく憶えていない。どうせ「う、うん」とか口ごもっただけであろう。そんな行動に対応するようなスキルも根性も持っていたはずはない。今をもってすれば、考えるまでもなく僕は彼女にからかわれただけだ。こちらは毛も生え揃わぬ子供であり、彼女は既に思春期真っ只中である。対等である要素など何処を探しても見つかりはしない。
 そしてその時の後の事は一切憶えていない。恐らく、彼女達が退屈してさっさとテントを出て行ってそれで終わったんじゃなかろうか。何かが起きたりはしないと思う。小学生だし。

 彼女達の事はその後何度も見かけてはいる。例えば僕が中学校に上がった時に彼女達は未だ三年生で、時折校内で見かけはするのだが、地方のそのまた田舎では、派手で元気な人達はたいがい不良グループ(当時はまだヤンキーという言葉はなかった気がする)に属しているもので、つまり、彼女達を見かける際には漏れなくその周囲に怖い先輩達が集っているので、もし僕にそんな勇気があったとしても、とても話しかけられるような雰囲気ではなかった。僕がその女の子を想っていたという事はなかったと思うが、意識の端っこには居たような気がする。少なくとも中学の時までは。いや、そうでもない気がして来た。僕の女性へ対する好みの一部としては受け継がれているかも知れない。
 そして数年後、再び僕は彼女と邂逅した。どういう場であったか、これまた全く記憶に無いが、社会人となった彼女は何処かの化粧品メーカーの美容部員として働いており、化粧も巧みで更に美しくなっていた。この人はホントに綺麗な女性なんだなー、と想った記憶のみが残っている。

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 長々と書いてきたが、たったこれだけの話である。別に面白くも無いし。しかしこの話は何年かに一度は思い出すので、せっかくなので文章として残しておこうと考えたのである。人の記憶は年月を経て行くと共に細部が誤魔化され、都合の良い美しさを増していくものだが、このまま放っておくと酷い事になりそうな気がしたので取りあえず書いてみた。

寺と雨

 僕が通っていた小学校の隣には寺が在り、小学校の裏門と、寺の裏口は道を挟んで向かい合っていた。この寺の境内を抜けた方が近道になるので、僕は通学路としてよく足を踏み入れていた。それに加えて、境内は僕らの放課後の遊び場にもなっていたので、僕はこの境内で色々な経験をしたと思う。その中で、今でも梅雨の入口で静かな雨に降られていると思い出す事がある。

 さすがに小学生の頃の事なので、記憶もかなり薄れてハッキリしない事が多いが、明るい雨降りの中、僕は一人で境内の中に佇んでいた。何をしていたのかと言えば、それだけは明瞭に覚えているが、僕は雨と木々の匂いを嗅ぎたくて其処にいたのである。境内の中には大小様々な樹木が植えられており、雨水を吸い上げたそれらは豊潤な香りで境内を満たしていたのだ。僕はそれまでの短い人生の其処此処に於いて、その匂いが自分に心地良さを与える事を知り、それを思い切り満喫出来る機会を待っていたのだろう。今ではこうやって説明出来るが、その頃の僕にはその力はなく、自分の中に在る何やらモヤモヤした気持ちとして仕舞い込んでいた。なので、誰にも説明する必要が発生しない機会を心密かに待っていたのだ。恐らく、その日は友達と連れだって帰るという事はせず、こっそり自分だけ境内に潜り込んだに違いない。雨の日に誰かが遊びに来る事もないだろうし、僕は安心しきって、山門の敷居に腰掛け、膝を抱えるようにして目をつぶり、雨が葉々を打つ音を聴きながら、樹木の匂いを心ゆくまで吸い込んでいた。

 今でもそのような匂いを嗅いだりすると、当時の光景を思い出すし、現在も尚あの場所に自分が居るように錯覚する。

近況

 先々週末に熱を出して寝込み、翌日には熱は引いたが今度は喉を痛め、かつてないほどの痛みと、地獄からの咆哮が如き声の変調を経験し、そしてそれも治まったかと思いきや、今度は咳嗽が止まらず、いつまでも完治せずに低調な毎日を送っていた。しかしようやく、本日をもって回復の兆しが見え一安心しているところである。

 そんな中思っていたのは、喉を痛めると、噛み砕いたものですら飲み込むのがなかなか困難で、毎日の食事が愉しみでるあるどころか苦行に近いものがあり、そうなると毎日の暮らしに張り合いが無くなる。つまり「あと一時間もすれば旨い昼飯が待っているのでそれまで頑張ろう」だとかそういう自己暗示が出来なくなるので、どうにもやってられないのである。更には刺激の強いアルコールを摂取するのも、出来ない事はないが、いささか憚られるものがあり、夜に向けての張り合いも無くなる。こうなるともう、一日中どんよりとしている。僕はどちらかと言えば小食で、美食家でもない。そこそこの物をそれなりに食べていれば、一応は満足してしまう結構安上がりな人間である。毎日同じ献立であってもさほど問題は無い。そんな僕がこんなにも参ってしまうのだから、これが大食漢であり美食家でもある人物が喉を痛めたりしたら、とんでもない大打撃なのだろうなと考えたりしていた。

 そして更に厄介なのは咳嗽。咳が続くとなーんにも出来ない。観るのも読むのも何かしら手を動かすのも考えるのも、何一つ集中出来ないのですぐに放り出したくなる。夜になると、炎症止めも咳止めも薬の効力が無くなってくるせいか、喉の痛みや咳嗽がこの時間帯に集中する。もはや身体はぐったりしているし、何もする気になれないので、兎に角横になりたい。横になったからといって症状が軽くなる訳でもないのだが、そうしているのが一番楽な気がしてくるのだ。しかし眠くもないのに横になっていて、余計な考え事なんかしたくはないので、ぼんやりテレビを眺めている。大概は語学番組だ。咳が治まっている時は発音練習をしたりもする。意外にこれが心地良く過ごせるので、ここ数日は毎晩やっている。おかげで何時の間にか、英語フランス語韓国語中国語を並行して学ぶ事になってしまった。ロシア語ドイツ語イタリア語アラビア語はさすがに多すぎるので避けた。いや、既に許容範囲は超えてそうだが、始めてしまったものは仕方がない。因みにテレビ番組のプログラムは半年間行われるが、これがいつまで続くのかは判らない。成り行き次第である。

待合室

 例年よりも随分と早く花粉の飛散を身体で確認したので、行きつけの耳鼻咽喉科に本日登院してきた。この近隣で耳鼻咽喉科はその医院しかなく、評判も良いので毎年この季節にはかなり混雑している。そして今日もその覚悟で参じてみれば、待合室の患者の数がやけに少ない。お、これはラッキー。まだ時期が早いから症状が出てる人も少ないんだろうな、と思いながら受付に診察券と保険証を差し出すと、カウンターの上に何やらモニタが鎮座している。画面を見ると「現在の呼び出し番号」「現在の待ち人数」「現在の待ち時間」等の項目が表示されている。それをじっと見ていると受付の女性がチラシを差し出した。どうやらインターネット経由で、モニタに映し出されたのと同じ情報をパソコンや携帯電話で閲覧する事が出来るらしい。
 これは便利である。これまでは一度受け付けを済ませて、一二時間後に、そろそろ順番かなーという時間に再び登院する。丁度良い時もあれば、更に数十分待つ事になる事もある。そんな具合に非常にアバウトな事をやっていたのだが、このサービスを使えばほぼジャストな時間に行く事が出来て、時間の無駄が省けるというものである。世の中便利になったものだ。

 しかしながら少し残念な部分も在る。このサービスのおかげで待ち時間はほぼ無い。待合室に居るのは一人二人くらいで閑散としている。なのですぐに順番が回ってくるのであるが、そこが問題なのだ。いや、問題というほどの事でもないのだけれど、僕はお年寄りや子供やその母親や中学生や高校生の雑多な人々に混じって、明るい陽差しの中で順番を待ちながら本を読むのが好きなのである。待ち時間がほぼ無いので、その楽しみも無くなった。いやまあ、それで別に困る事はないんだだけど、少し残念である。

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 よくよく思い出してみれば、これまで通った様々な診療科目の医院の待合室は、程度の差こそあれ、どれも採光を施した部屋が多かった気がする。そして隅に誂えられた小さな本棚には、医院長の趣味であろう雑誌や、古い絵本や、時代遅れの漫画が詰め込まれていたり、金魚や小さな熱帯魚が水槽に飼われていたり、鳥籠の中でメジロが可愛らしく鳴いていたりする事がよくあった。そんな穏やかで、明るく、静かな空間は読書をするのにうってつけだったのだ。此処なら住める、とよく思ったものだ。

 仕方の無い事とは言え、そういう機会を一つ失ってしまった。うっすらと寂しい土曜日である。

退屈に呑まれる季節(前向きに)

 昨日のエントリを書いてから思ったのだけれど、もしかして僕は自分がそうしたいからボンヤリしているのじゃないだろうか。暖かい場所で日がな一日微睡んでいたい、とそういう事を望んでいるのではないだろうか。言ってみれば、冬眠欲みたいなものなのではないか。であるなら、それはもう仕方がない。いっその事、積極的にこの堕落を推進して行った方が良いのではないかとさえ思えてきた。

 因みに昨日のエントリに書いた、実家の縁側での過ごし方は結構理想的である。惜しむらくは炬燵でない方が好ましい。炬燵だとウトウトするには少々熱すぎて疲れてしまうのだ。使った事はないのだけれど火鉢はどうだろうか。寒いだろうか。毛布にくるまっていればそれなりに過ごせると思うのだが。それに外は雪が降り積もっていて欲しいし、身近には猫か犬が欲しい。そして、微睡むのに飽きた彼(猫か犬)がソワソワし始めるので障子を開けてやると、彼は勢い外に飛び出し、積もった雪にハマって右往左往する。そんな光景を眺めながらぬる燗の酒を啜りたい。

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