DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: economics (page 3 of 4)

 価格支配力を持った企業の行動について興味深いものの一つに、差別価格政策がある。その一例として映画館の料金の学生割引について考えてみよう。
 映画館の料金には学生割引がある。しかし、レストランの料金には普通、学生割引はない。これはなぜだろうか。

 (中略)

 個々の映画館はそれが立地している地域では、ある程度の価格支配力を持っている。つまり、映画館の料金を安くすれば観客を多少とも増やすことができるのに対して、料金を引き上げれば観客数の減少は避けられない。個々の映画館が料金を引き下げた場合には、学生とその他の人とでは、学生の方をより多くその映画館に引きつけることができる。つまり、価格を引き下げた場合に学生の方がその他の人よりもより多く映画館に映画を見に行こうとするという意味で、学生の映画需要の価格弾力性はその他の人よりもかなり大きいのである。学生に割引料金を提供することによって、その割引率以上に学生の観客数を増やすことができれば、映画館の総収入は増大する。それに対して、その他の一般の観客に割引料金を提供しても、彼らの映画需要の価格弾力性は小さいために、割り引いたわりには一般の観客数は増えない。そのため、一般の観客に割引料金を提供すると、かえって映画館の総収入は減ってしまう。
 このように、学生とその他の一般の人とで映画需要の価格弾力性が大きく事なる場合には、価格弾力性の大きな学生にだけ割引料金を提供することによって、映画館は収入を増大させることができるのである。
 ところが、レストランの食事の料金に学生割引を設けても、レストランは収入を増やすことはできないだろう。確かに学生に割引料金を提供すれば、彼らの食事の量は多少とも増大するかもしれない。しかし、いっときに食事の量をそれほど増やすことはできないから、割り引いたわりには食事の量を増やすことはできないだろう。そうであれば、学生に対して食事の割引料金を提供しても、レストランは収入を増やすことはできない。同じことは一般の人にも当てはまる。このように、食事に関しては、学生とその他の人とで需要の価格弾力性に大きな違いがないので、学生に対して割引料金が提供されないのである。

岩田規久男著『経済学を学ぶ』ちくま新書 1994年 pp.111-113

 アダム・スミスは「分業は市場の大きさによって制限される」と述べている。自分が生産したもののうち、自分の消費を上回る余剰部分のすべてを、自分が必要とするものと交換できるほど市場が大きくなければ、彼は一つの仕事だけに専念するわけにはいかない。人口の少ない村には食料品から日用雑貨まで何でも売っているが店、いわゆる「よろず屋」を見かけることが多い。これは売り手の店で売られている商品の一つ一つについては買ってくれる人が少ない、つまり、市場が小さいからである。「よろず屋」はさまざまな商品を揃えて、それとの交換に貨幣を手に入れなければ生計を立てることはできない。
 村には、映画館やパチンコ店などの娯楽施設がなかったり、本屋がなかったりする。そういう専門店は村では市場が小さすぎて成立し得ない。今日の日本でも。地下鉄のある都市はごくわずかしかない。地下鉄が経営として成立するためには、五〇万人程度の人口が必要であるという。
 分業の程度は市場の大きさによって制限されるので、集中がさらなる集中を呼ぶという現象が起きる。東京に何もかもが集中するという一極集中が起きるのも、東京圏という市場が群を抜いて大きいからである。東京では、あらゆる特化した商売が成立し得るかの如く、ありとあらゆる商業が存在しており、巨大都市の魅力をつくり出している。

岩田規久男著『経済学を学ぶ』ちくま新書 1994年 pp.55-56

 ちょっと前まで、ギャラリーとか美術館というのは聖域として守られていたわけですが、そこもほとんど公開されてしまった今、いちばん密室性が高い職種はアドバイザーです。みなさん聞いたことがないかもしれませんが、アドバイザーという職業がこの一〇年くらいの間に突然出てきました。結構な数がいるわけですが、その中で優れているという人は一〇人弱です。
 彼らが作っている密室がブラックボックスになって、ぼくらはそれに踊らされているといっても言い過ぎではありません。しかし、アドバイザーというのはアートの世界のジョーカーなのですべてのA級アーティストが密室に関わっているというわけでもありません。ここではアドバイザーというものが存在しているということだけ憶えておいてください。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 p.256

 よくいわれる話ですが、絵を販売する世界では緑色の絵、茶色の絵も売れない、赤色の絵は売れるという定説があります。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 p.146

 今、ぼくらの芸術の世界は中国、オイルマネー、ロシア、そういった新興国の人たちの生みだす整備されていないお金に翻弄されています。彼らが西欧式の芸術の歴史、ここでぼくが述べたような芸術の歴史を知っているかどうかはわかりません。なぜ芸術を買おうとしているかといえば、自分たちも先進国の仲間入りをしたい。相応の文化的レベルが高い人と思われたいという、日本が明治維新で文明開化した時のような発想にすぎないかもしれない。
 ただ、彼らはバブルの時の日本とは違います。バブルの頃、我々日本人は本当に何もわかっていなかった。我々は、第二次世界大戦で、国が富むとか、豊かな社会で人間が根本的にどうやって生きていくべきかという哲学を全部潰されました。
 だから、先が読めなかった。贋作もつかまされるし、せっかく買った、重要な芸術作品もバブルが崩壊した後、オークションを通じて外国に売らなくてはならなくなってしまった。そのために、日本にあまり良い作品は残っていません。しかし、新興国の彼らは、国家とは何かとか、自分たちが将来立国していこうとする方向性とか、本当に、未来のことまで考えています。だから最良のものを買う。まちがいをおこさないようにアドヴァイザーを雇って、将来、作るべき美術館を想起する。
 もちろん、資本主義経済のなかでアートはいちばん利殖をするのに有利だというリアリズムもある。そういう単純な理由も含めて、彼らは日本人のバブル期とはまったく別に、利殖と社会的な上昇の二つを一挙両得で手に入るのだったら、金は余っているのだから使ってよいではないか。そういう理由で、どんどん、芸術作品を買っている。
 これが、現在の芸術作品の流通の実情であり、我々がおかれている現状です。

村上隆著『芸術闘争論』幻冬舎 2010年 pp.45-46

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