DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: sociology (page 2 of 29)

 ディズニーはアニメ初のトーキーで音を付け、マルチプレーン・カメラとテクニカラーの導入で映像に奥行きと色を与え、初の長篇映画の制作によってドラマを与えた。総合化へ向けた指向性でもって、急激に技術革新が推進されたのである。そしてそのような情報量の増大はセル画のフラットさを逆に際立たせ、一つのスタイルへとそれを昇華させた。セルアニメは総合化の推進と同時に、ひどく人工的で清潔な、それまでにない特有な映像世界を出現させていったのである。
 ここで重要なのは、なぜそのような衛生思想めいたスタイルをディズニーが採択していったのかということである。これと関連して注目すべきなのは、ディズニー映画を特徴づける、残酷さや性的な要素の徹底的な排除である。白雪姫やシンデレラなどの、残忍さに満ちたヨーロッパのオリジナルの童話と照らし合わせてみると、ディズニーがまるで異質なものにそれらをつくり換えていることがよくわかる。
 そこには、昔から指摘されてきたヨーロッパとアメリカの子供観の違いをみて取ることができる。ヨーロッパでは子供を大人未満の忌むべき存在に位置づけてきたのに対して、アメリカでは子供の純真無垢さを尊び、そこに聖性すら見る。その子供のイノセンスの祝福を基調とするディズニー趣味は『E.T.』などのスピルバーグ映画を筆頭に連綿と受け継がれており、アメリカの大衆文化の一翼を占める、「ディズニー分化」とも言うべき系統を成している。
 ディズニー趣味の潔癖さは、エログロに傾く大衆文化の一般的な傾向に照らして、大変特異なものである。それは、もともとピューリタンらプロテスタント信者が理想的な共同体を築きに入植して形成されたアメリカの白人人口の、宗教的風土と完全主義的なユートピア志向を土壌にしている。ディズニー自身が厳格なプロテスタント信者であり、残忍さや性的要素の排除は、彼の宗教的道徳観の反映でもある。そしてこの完全主義的なユートピア志向性が、セルアニメーションという高度に人工的な映像技法を発達させる土壌ともなったのである。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 pp.103-104

 いまさらオタクを擁護したり、コマーシャリズムを批判したりするつもりはない。ただし、オタク趣味が蔑まれてきたことには、商業資本の原理が強く介在していた。このことは、本書で見ていく都市風景の分化に大きく絡んでいるので、敢えて指摘しておきたい。
 後の章で詳述するが、大手商業資本による開発が街を海外指向に染めるのに対し、オタク趣味はメイド・イン・ジャパン指向に染める。このように対比させると、オタク趣味をナショナリスティックに持ち上げようとしているようにとられるかもしれない。しかし仮にオタクがプチナショナリストになりがちな傾向があったとしても、それはあくまで副次的なことである。愛国心からオタクになる人などいない。人格や趣味の方が、思想や主義などよりよほど根深い構造を成している。

森川嘉一郎著『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』幻冬舎 2003年 p.35

散歩する少年、再び。

 ほぼ一年前のこの記事の続き。去年の夏頃からは、その少年の姿をあまり見かけなくなっていた。まったく見ない訳ではなく、たまには見かけていたので、時間帯を少し変えたりしているのだろうと思っていた。

 僕は今、一日おきに散歩を兼ねたウォーキング時々ランニングをやっているのだが、今朝はトレーニングではない散歩をしたかったので、いつもとは違うコースを遠回りに歩いてみた。(散歩コース参照)資材ゴミ置き場跡の手前で農道に入って堤防に突き当たり、未舗装の道を上流に向けて歩いて橋を渡り、今度は反対側の堤防の道を下流に向けて歩き、突き当たった道路を上って途中で農道に入り込み、これまで一度も歩いた事のない地域を探訪したりしていた。
 その後はいつものように神社へ参拝し、橋を渡って南へと進み住宅地に戻ってきた辺りで、東側から歩いてくる少年の姿が見えた。相変わらずに髪型で相変わらずの黒っぽいジャージ姿だった。去年は10代半ばくらいだと思っていたけど、今日見たら10代の終わりか20代初めかも知れないという印象。成長したのだろうか。途中からは、彼が僕の後を追う形になった。どうも僕の散歩コースと似通った道のりを歩いているようだ。しかし何故こんな時間に歩いているのだろうかと思ったが、考えてみれば、午後に見かけなくなったのは朝歩くようになったからかも知れない。憶測でしかないけれど、昼頃に起きる生活から朝起きる生活へとシフトしたのだろう。とすると、彼の状態が上向きになっているという事だろうか。そうだと良い。そうであるなら、何となく嬉しい。

「検閲」について考えるなら、この点はいっそうはっきりする。日本的空間の検閲者は、表現の象徴的な価値には概して無関心のようだ。性器がまるごと描かれるようなことさえなければ、どのような冒瀆的な画像であろうと公表できる。しかし西欧的空間においては、図像はその象徴的な価値に応じて検閲される。性器が映るか否かといったトリヴィアルな問題ではなく、ともかく図像における冒瀆的あるいは倒錯的な要素が厳しい注目に曝されるのだ。

 (中略)

 この対比からまず指摘しうることは、次のことだ。西欧的空間における図像表現は「象徴的去勢」を被るが、日本的空間においてはせいぜい「想像的去勢」しか存在しないということである。たとえて言えば、西欧的空間ではペニスを象徴するあらゆる図像が検閲されるが、日本的空間においてはペニスそのものさえ描かなければ、何をどのように描いてもよい。私はそうした皮肉な意味で、日本のメディアはもっとも表現の自由に開かれていると考える。そして問題は、むしろこの「自由」のほうにあるのではないか。
 日本的空間においては、虚構それ自体の自律したリアリティが認められる。さきにも触れたように、西欧的空間では現実が必ず優位におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない。さまざまな禁忌は、その優位性を確保し、維持するために持ち込まれる。例えば性的倒錯を図像として描くことは認められない。虚構は現実よりリアルであってはならないからだ。そのためには、虚構があまり魅力的になりすぎないように、慎重に去勢しておく必要がある。それがさきに述べた「象徴的去勢」ということだ。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.300-302

 アウトサイダー・アートには、美術界に所属していない素人の作品も含まれるが、一般には「精神病患者の作品」を指すことが多い。一九二二年、ドイツの精神科医プリンツホルンが各地の精神病院を回って蒐集した患者の作品を著書『精神病者の造形(Bildnereider Geisteskranken)』で紹介して以来、アウトサイダーすなわち精神病者の絵画や造形が広く関心を集めるようになった。

 (中略)

 ダーガーの紹介者であるジョン・M・マクレガー氏は、アウトサイダー・アートを次のように定義する。「広大で百科事典的に内容が豊富で、詳細な別の世界(現実社会に適合できない人が選んだ、奇妙な遠い世界)を、アートとしてではなく、人生を営む場所として作り上げていること」。そう、彼らはみずからの狂気が作り出した世界の地図を作り、彼自身の神のイコンを描く。絵の中で自分の発見した万能治療薬を解説し、自分の見聞してきた火星の風景を描写し、あるいは迫害者が遠隔操作で自分を苦しめるために用いる装置のしくみを詳しく説明する。自分だけの王国で、貨幣を発行し、自分でつくりあげた新しい宗教を図解する。それはすでに「描かれた虚構」などではない。それは作者にとって、現実の等価物にほかならないのだ。
 アウトサイダー・アーティストたちは、作品を展示したり売ったりすることにあまり関心がない。彼らの作品は他人を楽しませる虚構ではなく、現実すら変えてしまうことの出来る道具であり手段なのだ。そんなにも大切で個人的なものを、いったい誰が他人に見せたり譲ったりできるだろうか。

斎藤環著『戦闘美少女の精神分析』ちくま文庫 2006年 pp.125-126

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