DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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写真

 久々に思い出した。僕が写真を撮り続けようと思った理由を。身の回りから美しいと思えるモノ(それは人でも物でも場面でも)を見つけ出し、それをフィルムに焼き付けておこうと思ったのだった。自分が死ぬまでに、出来るだけ多くの美しいモノを記録しておきたかったのだ。そう、それは表現ではない。ただの記録だ。
 最近は楽な事もあって Ricoh GR Digital を使って撮る事が多い。しかし思うのだ。自分の大切な記録が、ただの電子データであるのは何だか寂しい。出来れば物として残しておきたい。あの時確かに、自分の傍らにそれらは在ったのだと思って死にたい。

 そういう訳で、再びフィルムカメラに興味は移りつつある。

京都 / Motoko

  京都の町や物・人を写した写真集。これまで観た京都を写した写真集の中では一番好きかも知れない。飽くまでも、現在も生き続けている町の側面を写し取る。優美で可愛らしく、朱の色がとても似合う。
 と、これだけ書くのも何なので、写真家について少し調べてみた。公式ページは、CDジャケットのコーディネイトと、アーティストのマネジメントをしている mili という会社のサイト内に在る。そこで、これまでの履歴を読む事が出来る。
 それから、この写真集に関してのインタビューがフジ・フィルムのサイト内に在る。その町を通り過ぎる者の視線ではなく、その町に住み生活する者の視線で撮ったという話。町は、旅行者の目に届かない場所に、たくさんの「特別な風景」保有しており、それらに視線を向け切り取るというのは、とても愉しい作業だと思うのである。

ブラッサイ – ポンピドゥーセンター・コレクション / 東京都写真美術館

 ブラッサイの写真展を観てきた。ブラッサイは「夜のパリ」と「昼のパリ」の写真集しか観た事はなかったのだけれど、今回の展覧会ではその他のシリーズも観る事が出来て良かった。私が得に気に入ったのは「落書き」のシリーズ。壁を石で削って描かれたその落書き達は、その深遠な表情と声ならぬ声で観る者に語りかけてくるようだ。ブラッサイはこれらの落書きを「時間のもたらす風化を確認するために」数年間に渡って繰り返し撮影されたそうだ。

 ブラッサイは、やはり夜を撮った写真が好きだ。絶妙な光加減でパリの街やそこに佇む人達を浮かび上がらせる。本展のコミッショナーであるアラン・サヤグ氏のコメントにはこうある。

 ブラッサイは一度もスタジオを持ったことがない。ルポルタージュやモード、あるいは広告にもまるで関心がなかったし、また、事故や犯罪の現場に駆けつけることもなかった。彼はセンセーショナルな出来事を嫌っていた。(中略)ブラッサイは世の中を凝視する人間であろうとし、またそうであることに深い喜びを感じていた。彼は儚いものを越えて、永遠なるものを引き出し、不変の規範をそこに与えた。

(夜を撮った写真とは余り関係のない話になってしまったが)写真表現が成立する理由として、それだけを全面的に支持する訳ではないが、人間の欲求としてそれを全面的に支持する。荒木経惟も同じような事を言っているが、彼は舞台を創ったりもする。森山大道や中平卓馬はどうだろう。考えれば切りがない。別に批判をしているのではなく、僕が自分の中で区別整理したいだけなのである。今自分が見ている世界や人々以外に凝視すべきものなど有り得ないし、そうであれば、何をどうすれば良いのだろう。写真に限らず、それは僕の命題であるように思われる。

Arakimentari / Travis Klose

 一つの文章に纏めるというのが出来そうにないので、箇条書きで。

  • 森山大道のドキュメンタリ映画「≒」よりはかなり出来が良い。
  • 写真家としてこれまでに出版した写真集は350冊にも上るというのは凄い。
  • 親しい人達へのインタビューというのは、正当な要素だとは思うが、彼方此方で目にしているので、個人的には要らない。
  • しかし、撮られる側の人達へのインタビューは興味深かった。
  • それでも、一様に皆誉めっ放しなのはどうだろう。荒木経惟が好きで作った映画なので仕方ないか。
  • どうせなら、中平卓馬を出せば面白かったのに・・・。それか篠山紀信。そう言えば先日、新宿の沖縄食堂「やんばる」で中平卓馬とホンマタカシを見かけたが、何故あの二人がつるんでいるのだろう。と思ったら、そう言えばこんな事やってたんだった。完全に観逃している。最近忘却の仕方が酷いので自分が心配だ。
  • よく話題に上るのは、やはり亡き妻陽子さんの事。陽子さんとの事については、これも彼方此方で読んでいるが、僕は二人の間の事を読むのが好きである。羨ましいとさえ思う。そしてこの映画の中で、臨終の床についた陽子さんの、透明なチューブを巻き付けた腕の先、力無いその手の平をしっかりと荒木氏が握った写真を見た時、僕は泣いてしまった。その写真は何度も観ているハズなのに、感情が抑えられなくなった。差し伸べられた手をしっかりと受け止め握り返す、という行為に打ち震えたのである。
  • DJ Krush の音楽は今一つ。
  • 局部にボカシの入る映画など久しぶりに観た。
  • どうせなら、モデルとなった人々をもっとたくさん出して、コラージュの様に散りばめれば良かったのに。数年前に東京都現代美術館で催された展示会の物量は、それはもの凄いものであった。それを映画でやれば良かったのになあ。
  • 気になったのは、長い間荒木氏のアシスタントをしていた野村佐紀子さんの姿が見えない。離れてしまったのだろうか。しかし青山ブックセンターで著書は見かけたので、写真を止めた訳ではなさそう。
  • エンディングで、監督であるクローゼ氏のカラオケしている姿が映される。荒木氏の写真にも、カラオケで歌っている人々の姿をよく写っているが、なかなか良い感じである。個人的にカラオケは好きではないが、その写真は好きだ。

 最後まで纏まりはないが、荒木氏の撮影している光景を見るのは楽しい。出来たらもっと観ていたい。

生きている / 佐内 正史

 日常の中ではさして気にする事もなく見逃してしまいそうな光景を焼き付けてある。こういう文章は割と彼方此方で目にするのだが、本当にどうでも良さそうなモノを撮っている。ように僕には思える。何の引っかかりもないし。でも何故か気になって観てしまうし、終いには写真集まで買ってしまう。何がどう気になるのか自分でも解らないままに。例えば、森山大道や荒木経惟や中平卓馬の方が僕に取っては解りやすい。対象物の何が気に入って撮っているのかが解るような気がするからだ。しかし佐内正史の撮る写真はそういう事が何も思いつかないのである。思うに、彼は対象物など撮っていないような気がする。対象物と思しきモノの直前に在る何か、空気のようなモノを撮っているような気がする。しかしそれが僕に心地よさ(のようなもの)を感じさせるのは何故なのか、それは全然さっぱり解らないのである。

 少しばかり考えてみると、彼の撮る写真には闇・影(隠喩としての)が無い。全方向からの光に満たされている。今現在目に見えている実体以外には何もない。そう言っているような気がする。汚れも、綻びも何もない清潔な実像。虚飾も欲望も存在しない陽の当たる場所。僕にはそれは空恐ろしく感じる。
 以前、何処ぞの巨大掲示板で書いた気がするが、彼の撮る写真に写り込んでいるのは、黄泉の国から再び戻った時に最初に見る光景がそれであるような、そんな印象を受けるのである。

佐内 正史 Official Site

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