DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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夢二の写真

 本屋に寄った際に偶然見かけた「竹久夢二写真館-女-」。その表紙の写真(掲載した画像とは違うのだが)が気になって手に取ってみる。パラパラと捲る。非常に気に入った。これまで竹久夢二の絵にさして興味を持った事はないのだが、写真はとても良い。驚いた事に、写真は竹久の描く絵そのものだった。あの絵は空想の中で捏造した世界であるのではなく、傍に在るもの(女)を描いたに過ぎないのだ。絵の主軸となる諦念感は、やがて戦争へと向かう社会の写し絵ではなく、極個人的な日常の描写であったのだろうか。

過去からの帰還

 コンタクトシートを焼いていなかったフィルムのスキャン作業が、もう後4本分で終わる。2001年の春辺りまでのフィルム。この5週間の間、飽きもせずに毎日のようにその作業を繰り返していたのだが、一旦そこで止めようと思っている。その後のフィルムからはちゃんとコンタクトシートを焼き、その裏には日付(年・季節)と使用したカメラ・レンズまできっちり書き込んである。要は自分が見たかっただけであるので、その後のフィルム分はコンタクトシートを見ればそれで済むのである。第一、それから現在までのフィルムの量は膨大で、キリがない。

 今見てみたら、そんなマメな事をしているのが2004年の年明けの冬辺りで止まっている。相変わらずコンタクトシートは焼いているが、書き込みがない。撮るのは撮っているのだが、量も少ない。よく思い出せないが、何かしら低迷期に入ったのかも知れない。それか逆に、写真を撮るという行為が必要なくなったのかも知れない。どちらが人の生活として良い状態であるのか、どうにも判断がつかない。
 そんな煩雑な整理の仕方が気になってきたので、今日からまた書き込みを始めた。この春に撮ったフィルムで、思い出せる範囲内で。以前にその書き込み作業に使用していたボールペンのインクがつかなくなっている。仕方がないのでマジックで書き込む。「 2006 Spring Olympus OM-1 Zuiko 35mm/F2 」
 それにしても、この二年間の間私は一体何をやっていたのだろう。今気付いたが、このブログを始めた時期と丁度重なる。

写欲

 なんて事について考えてみる。

 僕が写真を撮る事を日常の一部にした理由は此処で書いた通りだが、どうもそれだけでは説明になっていない部分もあるので追記したい。しかしそれほど正確に説明出来る自信もない。それは自分でもよく解らないからである。なので、この文章を書く事は私が自分の事を考える為の口実に過ぎない。と、こんな前置きを書いてしまうと、長々と書かねばならないような気にもなるが、簡単にしか書かない。

 思い出や関係性を可視化しないと気が済まない、不安に感じるというのは、自分の人生、それが大袈裟ならば生活に何からの希薄さを感じているからではないか。自分以外の人達の事に転じると、少し前のプリクラやSNSの可視化された交友関係などはその現れであるように思う。
 生活の希薄さが求めるものは他人との関係性に対するものだけではない。同じ様な事で、物欲・複数の資格取得・複数の語学の習得・食べ歩き、度重なる旅行など。これらをやる人が全てそうであるというのではない。中にはそんな人が居るという意味である。判断の基準としては、それをやる必要が客観的に見てあるのかどうか。適切であるか、過剰であるか。そう考えると、人々が余暇でやっている事はそんな事ばかりである。
 何となく偏った意見であるようにも思えるが、今はそんな風に考えている。

人生トレース

 このところ、フィルムカメラでまともに撮り始めた1999年の秋からこっちの写真をスキャンしてみたりしている。風景ばかりで人が写っている事は少ないが、時期と場所が判れば、その時独りであったのか、それとも誰かと一緒だったのかだいたいは思い出せる。しかし中には、何時何処で撮った写真なのか全然判らないものもあったりして、それはそれで面白い。
 1999年〜2001年の春までの写真は、未だ全然ネガの整理をしようなどという考え(まさか写真をずっと撮り続けるとは思っていなかったので)はなく、袋の中に溜まりに溜まったネガを、適当に掴んだ先からフォルダに収めるような事をしているので、ネガに日付を写しこんでいる写真以外は、本当に大凡の時期しか判らない。しかもそれは日常ではない特別な場所が写っているとか、雪が積もっているとか桜が咲いているとか、誰と一緒に居たとか、そういう記号が無ければ判断がつかない。

 さて、こういう事をしているからといって特に懐かしいという感情は湧かない。色々な事を思い出しはするが、ただそれだけ。良い事もあれば嫌な事もある。嫌な思い出が写りこんでいるネガなどスキャンしない。更に風化するまで封印するのである。何となく自分の略歴を眺めるようなこの作業は、基本的に楽しい。昔読んだ本の頁を開いたり、昔聴いていたレコードに針を落としたりするのにも似ている。つまり目慣れた光景が再生されるのだ。違う点は、それが極個人的な光景でしかないという事。暫くは続けてみようと思う。現在の写真を撮る事より楽しい気がする。少なくとも今この瞬間は。

映像の解体

 近所のパン屋へ続く露地の途中に、初夏の頃になると庭一杯に紫陽花を咲かせる古い民家が在る。木造の小さな門と垣根から零れるように咲き誇る色違いのグラデーションを、毎夏眺めるのが数年来の僕の密かな楽しみである。

 先の土曜日。暫くの間行っていなかったパン屋へ行こうとその露地を歩いたら、紫陽花自慢の古い民家は取り壊され、新しく建てる家の為のコンクリート基礎が既に打ってあった。
 僕は唖然としながら、その更地となった空間を見つめていた。もう、あの優しげな色に彩られた庭を見る事が出来ないのだ。寂しいやら、悔しいやら、である。
 僕は部屋に戻り、これまでに撮ったフィルムをひっくり返し、あの民家の写真を探した。きっと残っているはずだと思ったのだ。しかしながら残ってはいなかった。よくよく思い出してみれば、その露地は狭く、どうしても庭全体を具合良く収める構図が見つからずに、毎年諦めて紫陽花に近寄って撮っていただけだったのだ。紫陽花の向こうには縁側が在り、人の気配がする時にはカメラを向ける事を躊躇する事も多かったので、十分に構図を探す事が出来なかったのだ。

 失われてしまった光景というのは、どうしてこうも後悔の念を植え付けるのだろうか。勿論記憶には残っているので、思い出す事は出来る。しかし記憶でしかないのなら、自分の都合の良い解釈で描き換えられ、不必要に甘美な色が加味されてしまう。現実に質量を持つ存在の確かさと、その存在の凛々しさというようなものは思い起こす事が出来ない。

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