DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Tag: art (page 11 of 18)

 展覧会とは、平たくいえばモノ(作品)の移動である。それが展示室の配置移動にせよ、文化の異なるA地点からB地点への移動にせよ、とにかく移動させる。A国の文化を知らないB国の観客にとって、作品はときにはまったく異質のものとして理解できないか、誤解のうちに受け入れられることも多い。アカデミズムを重視する学者はその誤解を批判するが、キュレーターは、誤解を怖れることなく、それを新たな解釈の生成とみなし、つぎなるアプローチのための糧とするのである。
 私たちは、生まれ育ってきた文化や情報環境の蓄積と、直感や感性を総合して、対象の意味をとらえている。例えば村上隆のフィギア彫刻は、欧米の鑑賞者にはエキセントリックにデフォルメ(大きな目や胸など)されたポップアートの彫刻に見えるのに対して、日本のアニメオタクにとってそれは出来の悪い(精度の低い)フィギアの一つになる。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 p.16

 特に物理的存在である作品と身体とが出会う経験においては、身体知とでも呼べる総合的な知性のありかたが重要となる。視覚芸術は、音楽、演劇、舞踏などと異なり、意味・記号的言語と、作品の存在論的言語とが複雑な層となって構成されている。それは、文節可能な世界とそうでない世界の境界にまたがって存在する。アート作品には分析が困難な、異なったレベルの抽象化がなされており、それには感情にコミットし、かつ偶然、予測不可能性、超現実といった想像力の分野に関わっているからだ。この不確実な、怪しい、底の知れないソフトウェアを伝達することは、ギャンブルに近い。挑戦的な仕事といえる。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.11-12

 いい作品はどう判断するのかと、よく聞かれることがある。長いこと記憶に残っている作品と答えることが多いが、では若い作家の作品を最初に見たとき、その場でどう判断するのか。それは、その作品が視覚の中に「到来する」「侵入してくる」という以外には表現のしようがない。それは、視覚的インパクトという表現ではすまない何かなのである。こちらの視覚的記憶の蓄積とそのたびごとに積み重ねてきた解釈や判断の集積により、経験あるキュレーターの眼はたえず既視感にさらされている。その既視感ブロックを破って侵入してくる作品は、そこだけモノクロから総天然色になったときのような新鮮さがある。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.4-5

 一九九〇年以降、美術館の数は増えました。ところが、景気が後退するとまず予算を切られるのは芸術文化部門です。ハコはつくってみたものの、中身までは手が回りません。近年開館した森美術館にしろ、国立新美術館にしろ、コレクションを持たずに企画展を見せることに終始するタイプの美術館が増えました。
 独立行政法人国立美術館法(二〇〇一年施行)は、この状況にさらに追い打ちをかけます。国立美術館は、自力で採算を上げなければならないのです。ますます財政は厳しく、新たにコレクションを増やすのは相当苦しい状況です。美術館行政は、芸術文化の向上といった「質」よりも、まずは入館者数や売上といった「量」を最優先課題としなければならなくなったのです。

小山登美夫著『現代アートビジネス』アスキー新書 2008年 p.190

 日本では、公益性のある美術館や団体に寄付する場合、所得の四割まで控除を受けられる制度があります。私立美術館への寄付は課税対象です。相続税については、購入金額ではなく相続時の評価額に課税されるので、評価額が大きく上がると相続者が苦慮することになります。結局、税金を払うために作品を手放して海外に流出させてしまったり、納税を避けるために作品が隠されてしまい、個人所有の重要な文化財の所在が不明になってしまう場合があります。(和田)

小山登美夫著『現代アートビジネス』アスキー新書 2008年 p.185

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