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A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 源頼朝は鎌倉に拠点を定め、鎌倉幕府をつくり、文字通り天下の覇者となった。いわゆる鎌倉期以降の博多の都市的発展(対外関係・モノの流通・文化)を考える場合、禅宗と禅寺が持つ意味を見逃すわけにはいかない。栄西の聖福寺、円爾の承天寺の建設。いずれもこの時期の博多の都市的発展を考える場合の核となる重要なできごとである。
 武家文化を培養した鎌倉禅や、公家の保護を背景に兼修禅を中核とした京都禅と比べ、博多禅は、禅宗のの初伝として、対外文化交渉の門戸にふさわしい発展ぶりをみせた。宗・元などの中国文物の日本への移入役として禅宗を位置づけるべきであり、博多の日本文化史に占める意義は大きい。博多禅は、臨済宗と茶の導入者である栄西によってスタートした。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.36

 ここで指摘しておきたいのは、筑前の商人の海外渡航が、十世紀以降急速にふえ出したことである。つまり、東アジア商圏への筑前の地場商人の参画がそれだ。博多商人の反中央、反体制の烽火はかくして上がり、現在へと続くのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.22

 狙われた円爾は謝国明に助けを求める。謝国明は宋出身で、小呂島(福岡市西区)を貿易の基地にし、日本人女性を妻に持つ博多網首。義侠の人でもあった。円爾を櫛田神社近くにあった自宅にかくまったという。一連の騒動は、双方にとって貿易の利権がどれほど大きかったか、博多がいかに重要な位置にあったかを物語っている。
 謝国明は、禅への信仰心も厚く、多くの足跡を残している。
 JR博多駅近くにある承天寺は、謝国明の援助によって円爾が建立した。円爾の恩師である宋の無準師範の径山万寿寺が火災に遭った時は、木材千枚を贈った。その五年後に承天寺が焼失。謝国明はたった一日で、仏殿など一八の建物を再建させたと伝えられる。それほどまでに禅に帰依していた理由は何か。「故国を離れて暮らす網首たちにとって、禅宗は心のよりどころだったのでしょう」と大庭康時主査はみる。しかし、それだけではない。禅という共通の文化を持つことが、宋とのつながりを強固にし、間違いなく貿易事業のうえでも大きな利益を生んだ。若き日、東シナ海の波濤を越えて博多へやってきた謝国明。文化人であり、並外れた財力を持つ貿易商人だった。後に登場する博多の豪商たちの原形をみる思いがする。
 飢饉になったある年の大晦日のこと、謝国明は、飢えた人々を承天寺の境内に集めて「そばがき」をふるまった。これが年越しそばの起源になったとも言われる。
 弘安三(一二八〇)年、八十八歳で没したと伝えられる。墓は承天寺近くにある。墓のそばに植えられた楠が巨木になったことから、「大楠様」と呼ばれるようになった。毎年八月の命日には、遺徳をしのぶ「千灯明祭」が営まれている。

読売新聞西部本社編『博多商人〜鴻臚館から現代まで〜』2004年 pp.20-21

 韓国の対日感情を知るには、やはり博物館を訪ねるのがよいだろう。ソウルの中心部には広大な米軍基地があり、そのすぐ近くに戦争記念館がある。おもな展示兵器や記念品ともっとも詳しい展示は、朝鮮戦争にまつわるものだ。しかし、一〇〇〇年以上に及ぶ軍事の歴史の展示もあり、その大部分は日本との戦争の歴史のように見受けられる。この二カ国は隣合っているから、当然かも知れない。イギリスだって同じだ。ーードイツが登場してフランスにとってかわるまでは、フランスとの戦争に明け暮れていたーーと揶揄されてもおかしくない。ここで注目すべきなのは、最近の朝鮮と日本の紛争で、戦争記念館によれば、一八九五年、李氏朝鮮(この時期は大韓帝国)の第二六代王の妃である閔妃(明成皇后)が、日本の暗殺部隊によって殺害されたときに、この「義兵闘争」がはじまったという。

 (中略)

 義兵というのは、実質的に農民兵などからなる不正規部隊だった。最初は、一九三一年に日本が完全に支配する前の満州に拠点を築き、ついでロシア領内でも結集して、そこからゲリラ攻撃を行った。一九三七年以降、中国領内では抗日統一戦線の祖国光復会や中国人の指揮する東北抗日連軍が日本軍と戦い、敗走して極東ロシアに逃れた一部がソ連軍に吸収された。そのなかに、のちに北朝鮮の独裁者となる金日成がいた。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.269-270

 東京の中心にある皇居のすぐ北に、日本の武道の中心地である日本武道館がある。そこと大通りを隔てた筋向いに、靖国神社は建っている。

 (中略)

 友人や親類が祀られているのでなければ、そう見るべきものがあるような神社ではない。一八六九年に建立されたのは、戊辰戦争などによる新政府軍側の死者を弔うためだった。

 (中略)

 この幕末期の戦死者も含め、靖国神社には祖国のために命を落とした二五〇万柱に近い「英霊」が祀られている。神道はもともと祖先崇拝であるが、この神社は特定の神ではなく、戦死者を崇める場となっている。靖国という名称は一八七九年に明治天皇が決めたものであり、それ以降ずっと、靖国神社は皇室と深い結びつきがある。天皇はむろん神道の中心であるのだが、明治維新のために死んだ人々が祀られているので、いっそう深い関係になっている。毎年の春と秋の大祭には、天皇の勅使が出席する。だが、一九七五年以降、昭和天皇も今上天皇も一度も参拝していない。一九七八年に靖国神社が「昭和殉難者」として、一九三〇年代から四〇年代に日本の政治・軍事指導者であったA級戦犯一四人を含め、有罪判決を受けて死刑になった戦犯一〇六八人を英霊として認めたからである。この一〇六八柱は、「神」として霊璽簿に記載されている。厚生省(当時)がこのために名簿を提供したことが判明し、問題になった。
 細かい法律面が問題となるのは、靖国神社が民間の宗教法人であるからだ。以前は国有だったのだが、戦後の新憲法によって政教分離が確立した。そのため政府の直接の管理が及ばず、戦没者を追悼する国家的な施設が民間にゆだねられているという、おかしなことが起きている。しかも、靖国神社は日本の国家制度のおおもとである天皇とも結びついているから、たいへんまぎらわしい立場にある。さらに、戦犯を祀ったのは神社自体だが、それには厚生省の協力があった。しかし、戦犯が合祀されたあと、一九八九年に崩御した昭和天皇は、靖国神社に参拝しないことを決意した。一九三〇年代から四〇年代に天皇をいただく政府の指導者であり、天皇の名においてなされた行為のために処刑されたA級戦犯が神として祀られている神社に自分が参拝するのは、問題があると判断したからだろう。今上天皇も、やはり一度も参拝していない。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.256-258

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