DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

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 外国の貴賓としてもっとも盛大な歓迎を受けたのは、やはりグラント将軍夫妻である。南北戦争で北軍の総司令官をつとめ、ついで大統領の職にあった将軍は、大統領辞任後の明治一二年六月、世界周遊の途次まず長崎に来航し、七月の初めから二ヶ月間東京に滞在した。

 (中略)

 将軍は天皇とたびたび会見している。まず到着の翌日の七月四日、早速表敬訪問し、七月七日には朝食を共にした後、軍隊を閲兵。八月に入ってからも、上野の歓迎式でふたたび顔を合わせ、同じく八月、浜離宮で長時間、比較的打ち解けた話をした。将軍は、民主主義の利点を論じ、ただしこの最良の政治形態も、採用には慎重を期し、あまりに性急に取り入れるべきではないと語った。将軍はまた日中関係にも触れ、以前から両国が領有権を主張している琉球諸島を日本画併合するについて、中国側の感情を考慮して適切な配慮をすべきことを希望した。日本を離れる前にも、将軍はもう一度天皇と会って別れの挨拶をしている。

エドワード・サイデンステッカー著『東京 下町山の手』ちくま学芸文庫 1992年 pp.154-156

 台湾は、中国にとって瑣末な法律問題ではない。中国人の感情を揺さぶる問題なのだ。私は、二〇〇一年に中国外交部軍控司(軍備抑制と軍縮を担当する部局)司長として武器制限交渉を担当していた沙祖康(駐ジュネーブ国連大使を経て、現在は経済社会局事務次長)に話を聞いたときのことを思い出した。話題が米中関係であり、しかも、アメリカの偵察機が中国の戦闘機と接触して海南島に強制着陸させられた直後だったにもかかわらず、驚くほど穏やかでなごやかなインタビューだった。沙司長は冗談もいえるくらい英語に堪能で、自信に満ちた人物だった。ところが、台湾が話題になると、突然語調が変わった。そばにあったコーヒー・テーブルを拳で叩いた。それは演技だったが、戦法の狙いどおり私はびっくり仰天した。すると、沙司長は声を荒らげ、こう叫んだ。「台湾を母国に復帰させるためなら、私は命を投げ出す覚悟であることを、知っておいてもらいたい!」
 中国はーー沙祖康以外の中国人もすべてーー台湾のために戦うだろうか? ここ数十年のあいだに中台の緊張がつのり、中国の侵攻の懸念が高まったときは、つねに台湾の国内政治が原因だった。一九九二年から、台湾は民主主義に移行した。その下準備をしたのは蒋介石の息子の蒋経国だったが、完全な民主化を行ったのは、蒋経国の後継者李登輝だった。一九九〇年代には台湾独立を唱える政治家が登場し、台湾人のナショナリズムに訴えて人気を集めた。李登輝は、一九九五年に初の民主的な選挙による総統に当選し、法に則った独立の明確な計画を打ち出しはしなかったが、その方向に向かうことを示唆した。李登輝は日本の植民地だったころの台湾に生まれ、日本語を流暢に話すことができて、日本の政界との結びつきも強い。いずれも中国にとっては不愉快なことだった。一九九五〜九六年、中国は本土と台湾のあいだの台湾海峡でミサイル試射を行うという威嚇行動に出た。クリントン大統領は、この脅しを重大事として、軍事解決を図らないように中国を警告するために、二個空母戦闘群を派遣した。それで双方とも引き下がった。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.304-305

 ダライ・ラマは二〇〇八年に七三歳になるが、いたって健康のようだ。しかし、仮に逝去したらどうなるのかということを、考えざるをえない。チベット仏教では、ダライ・ラマは転生すると考えられており、第一四世が逝去すれば、その転生者の子供を捜すことになる。その選定には何年もかかることが多い。しかし、誰が選ばれるにせよ、あらたに三つの厄介な問題が生じる。
 ひとつ目の問題は、二〇〇七年には中国政府が、チベットの高僧のすべてを政府が取り仕切るというあらたな規制ををもうけたことだ。つまり、候補者が転生霊童であるかどうかを最終的に決めるのは中国政府ということになる。いい換えれば、無神論者の中国共産党幹部が、チベット人の宗教上の決断を支配する。しかし、チベット仏教支配のために、清朝もおなじような規制を行っているし、中国政府は中国カトリック教会の司教の任命権も握っている。問題は、自分たちの宗教指導者に関する中国政府の決定を、チベット人が受け入れるかどうかということだ。中国のこの方針に対して、第一四世ダライ・ラマは、死ぬ前に第一五世ダライ・ラマを指名することを考えていると述べた。ふたつ目の問題は、自分は中国の支配する土地には転生しない、とダライ・ラマが明言していることだ。信者がこの言葉に従うとすると、中国領内で見つかった転生霊童は受け入れられないことになる。三つ目の厄介な問題は、第二位の高僧であるパンチェン・ラマが、中国政府の後押しで新ダライ・ラマ選定に大きな役割を果たす可能性が出てきたことだ。だが、一九八九年に第一〇世パンチェン・ラマが逝去すると、ふたりの転生霊童が選ばれた。ひとりはチベット亡命政府の選定委員会が選び、ダライ・ラマが承認した転生霊童であり、もうひとりは中国政府主導の探索委員会が選んだものだった。ダライ・ラマの選んだ転生霊童は、家族とともに拉致されて消息を絶った。おそらく政治犯として囚われているものと思われる。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.295-296

 韓国の対日感情を知るには、やはり博物館を訪ねるのがよいだろう。ソウルの中心部には広大な米軍基地があり、そのすぐ近くに戦争記念館がある。おもな展示兵器や記念品ともっとも詳しい展示は、朝鮮戦争にまつわるものだ。しかし、一〇〇〇年以上に及ぶ軍事の歴史の展示もあり、その大部分は日本との戦争の歴史のように見受けられる。この二カ国は隣合っているから、当然かも知れない。イギリスだって同じだ。ーードイツが登場してフランスにとってかわるまでは、フランスとの戦争に明け暮れていたーーと揶揄されてもおかしくない。ここで注目すべきなのは、最近の朝鮮と日本の紛争で、戦争記念館によれば、一八九五年、李氏朝鮮(この時期は大韓帝国)の第二六代王の妃である閔妃(明成皇后)が、日本の暗殺部隊によって殺害されたときに、この「義兵闘争」がはじまったという。

 (中略)

 義兵というのは、実質的に農民兵などからなる不正規部隊だった。最初は、一九三一年に日本が完全に支配する前の満州に拠点を築き、ついでロシア領内でも結集して、そこからゲリラ攻撃を行った。一九三七年以降、中国領内では抗日統一戦線の祖国光復会や中国人の指揮する東北抗日連軍が日本軍と戦い、敗走して極東ロシアに逃れた一部がソ連軍に吸収された。そのなかに、のちに北朝鮮の独裁者となる金日成がいた。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.269-270

 東京の中心にある皇居のすぐ北に、日本の武道の中心地である日本武道館がある。そこと大通りを隔てた筋向いに、靖国神社は建っている。

 (中略)

 友人や親類が祀られているのでなければ、そう見るべきものがあるような神社ではない。一八六九年に建立されたのは、戊辰戦争などによる新政府軍側の死者を弔うためだった。

 (中略)

 この幕末期の戦死者も含め、靖国神社には祖国のために命を落とした二五〇万柱に近い「英霊」が祀られている。神道はもともと祖先崇拝であるが、この神社は特定の神ではなく、戦死者を崇める場となっている。靖国という名称は一八七九年に明治天皇が決めたものであり、それ以降ずっと、靖国神社は皇室と深い結びつきがある。天皇はむろん神道の中心であるのだが、明治維新のために死んだ人々が祀られているので、いっそう深い関係になっている。毎年の春と秋の大祭には、天皇の勅使が出席する。だが、一九七五年以降、昭和天皇も今上天皇も一度も参拝していない。一九七八年に靖国神社が「昭和殉難者」として、一九三〇年代から四〇年代に日本の政治・軍事指導者であったA級戦犯一四人を含め、有罪判決を受けて死刑になった戦犯一〇六八人を英霊として認めたからである。この一〇六八柱は、「神」として霊璽簿に記載されている。厚生省(当時)がこのために名簿を提供したことが判明し、問題になった。
 細かい法律面が問題となるのは、靖国神社が民間の宗教法人であるからだ。以前は国有だったのだが、戦後の新憲法によって政教分離が確立した。そのため政府の直接の管理が及ばず、戦没者を追悼する国家的な施設が民間にゆだねられているという、おかしなことが起きている。しかも、靖国神社は日本の国家制度のおおもとである天皇とも結びついているから、たいへんまぎらわしい立場にある。さらに、戦犯を祀ったのは神社自体だが、それには厚生省の協力があった。しかし、戦犯が合祀されたあと、一九八九年に崩御した昭和天皇は、靖国神社に参拝しないことを決意した。一九三〇年代から四〇年代に天皇をいただく政府の指導者であり、天皇の名においてなされた行為のために処刑されたA級戦犯が神として祀られている神社に自分が参拝するのは、問題があると判断したからだろう。今上天皇も、やはり一度も参拝していない。

ビル・エモット著/伏見威蕃訳『アジア三国志〜中国・インド・日本の大戦略〜』日本経済新聞社 2008年 pp.256-258

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