トム・ウェイツの声を聴いていると、正確にはその姿を観ていると、時折父の事を思い出す。あんなに格好良くはないし顔が似ている訳でもない。酔っぱらいでもないし歌も歌わない。粗野な風貌は若干似ている気がしないでもないが、一体何処に共通した要素を認めているのか自分でもよく判らない。それでもとにかく、時折父の事を思い出す。

 父に関して思い出す事はたくさんあるが、あまり仲が良かった記憶がない。子供の頃ならいざ知らず、僕が思春期を迎えてからは大体どちらかが機嫌が悪い。一見して父は無口であるし大人しい性格のように見えるが、その実は頑固で偏屈で自分の思い通りに事が運ばないと酷く腹を立てる。そんな男と、とにかく何もかもが気に入らずに、鬱屈した鋭利な感情を盾にして生きていた僕が仲良く暮らせる訳がない。言ってしまえば大っ嫌いであった。
 人は余程のことがない限り、例えば死ぬような目に遭いでもしない限り、そうそう変わるものではないと思っている。そりゃあ何十年も経てば多少の変化はあるかもしれないが、それは生きていく上でのバランスを覚えていくようなもので、本質的なものは何も変わらずそのままだ。父にしても全くその通りで、昔に比べれば幾分かは態度が軟化したように見えるが、それはそう見えるだけで大して変わってはいない。相変わらず自分の思いを通そうとする。歳を取り、老境にも十分に進み入れば、いろいろな事を諦めていくのだろうと思っていたのだが、我を通す事だけは諦め切れないらしい。実に迷惑な人である。

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 父は内弁慶ではないと思うが、外面が良く、しかし社交的な人間でもない。基本的に殻に籠もっている人だ。そんな父の姿を見ていると、この人は遠い昔にたくさんの事を置き去りにしてきて、それを全て諦めた上で現在を生きているのではないだろうか、というような印象を持つ。喋らない人であるので、それが何であるかは僕は知らない。

 父の無念を晴らす。という言葉を目にした事はあるだろう。それは大概が時代劇の中で、理不尽な理由に因り失脚を余儀なくされたり、殺されたりした武家の父を持つ息子や娘が、怨敵を眼前に捉えて構えた時に吐く台詞であるが、僕も稀にこのような気分になる事がある。とはいえ父に明確な敵が存在している訳ではない。もし存在するとすれば、それは彼の人生であり彼自身である。随分と失礼な見方であるとは思う。後悔など何一つないなんて事はないと思うが、彼がひとつひとつ選び取ってきた結果としての人生である。僕なんぞにそんな事言われたくはないだろう。それでもやはり、彼の姿に無念さを感じずにはいられない。その根拠すら知らないのに。

 僕がどうすれば、彼を楽にしてあげられるだろう。時々そう考える。喜ばせたいのとは少し違う。彼に自分の人生を納得して欲しいのだ。良い事も悪い事も全て納得して欲しいのだ。僕は彼の息子であり、彼は僕より30年以上も長く生きている。おこがましいにも程があるし、現在も仲が悪い。幾ら考えてもその方法が思いつかないのだ。

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 今、いとうせいこう氏がWEB上に、複数の小説を同時進行で連載している。そしてその中の一本を、なんと氏の父が書いている。とても素晴らしい思いつきだと思った。それぞれの小説の内容よりも先に、そのアイデアが既に小説的だ。

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 保育園の時、授業で父の似顔絵を描いた事がある。クレヨンを使い、幼児にありがちな乱暴なタッチで、頭でっかちなフォルムで父を描いた。その絵は、煙草を吸っている父の横顔だった。当時の父はいつも煙草を吸っていたのだろう。実際には、父はいつも左手で煙草を摘んで吸っていたのに、僕は何故かしら絵の中の父には右手に煙草を持たせていた。その事をいつまでも気にしていた事を覚えている。

 僕が覚えている限りで最初の、父が吸う煙草の銘柄はハイライトであった。その後長い年月を経て父の吸う煙草は徐々に軽くなっていった。ハイライトからセブンスター、マイルドセブンから同じ銘柄のタールの含有量が少ないタイプへ。そして数年前に肺気腫を患ってからはそれさえも吸わなくなった。
 僕はもう随分と長い間、ハイライトを吸い続けている。一時期、約二年ほど煙草を止めていた時もあったけれど、再び吸い始めてからはまたハイライトを吸うようになった。かつての父と同じ銘柄の煙草を吸っている事を、どうやら僕はほんの少しだが誇らしく思っているようだ。そんな些末な事でも、父との繋がりを保っている事が嬉しいらしいのである。