DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: May 2018

 喜多流の仕手(能の主役)方として代々、福岡藩の黒田家に仕えたのが、梅津家である。喜多流を酌んだいきさつは、流祖北七大夫がまだ喜多流を確立していなかったころにさかのぼる。
 一六一五年(元和元年)、大坂夏の陣で豊臣方に加担した七大夫は、黒田長政に保護され、筑前に下って紅雪と名を改めた。その時、七大夫の身近にあって、修行をしたのが、筑前夜須郡甘木村の美麗作右衛門の長子、次久(のちの権右衛門)であった。
 筑前の美麗家は、大善寺玉垂宮など、筑後一円の社寺に田楽を奉仕した中世の美麗田楽の系譜をひいた一族である。
 もともと京都の梅津に住んでいたが、菅公の供をして筑紫に下ったと伝えられ、太宰府天満宮で「竹の囃子」を奉仕した、という由緒を持っていた。
 美麗の号は「容顔美麗」であったことから、頼朝から許されたものだ、と伝えている(福岡市在住の梅津忠弘師が所蔵する「筑前梅津家文書」)。
 美麗家は、のちに梅津家を称した。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 p.155

 一六〇三年(慶長八年)征夷大将軍に任じられた徳川家康は、早速、二条城で盛大な祝賀能を開いた。それまで秀吉の庇護の下にあった観世・金春・宝生・金剛の四座の能役者たちは、これ以後、徳川幕府の公式の式楽を担当する地位を確かなものとする。そこへ出雲のおくに一座が、歌舞伎おどりの新しい芸能を携えて登場する。芸能史の上でも、画期的な時代が到来しようとしていた。
 江戸時代の能楽は、個人的趣味にとどまらず、祝儀の際の接待として社会的にも大きな役割を持っていた。また、社交場必要なこともあって、能楽は諸藩でも盛んに行われ、大名自らの嗜みのためにも、競って能役者を重用した。
 とりわけ外様大名である黒田家では、武器をおさめる偃武の姿勢を天下に示す意味もあって、能楽を奨励したのであろう。
 長政は謡を愛好した。師である観世大夫黒雪が、長政のために節付けした見事な『観世章謡本』五十四冊(福岡市美術館蔵)も残されている。
 藩主が能楽に深い理解を示したことは、周辺の家臣たちにも影響を与えた。
 但馬は屋敷内に能舞台を持つと伝えられるほどの堪能であった。また、忠之や栗山大膳とともに、長政の病床に侍り、遺言を記録した岩崎平兵衛、太鼓の達人として江戸に知られていた。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.151-152

『長野日記』には、翌元禄十五年にも、福岡城内で上覧相撲の行われたことを記しているが、この時は福岡・博多両市中対抗の取組みで、福岡二十五人、博多二十八人の力士の名があげられている。この中には、前年の勧進相撲にはなかった三十人の新しい顔ぶれが見られ、筑前力士の層の厚さがうかがわれる。そして、これらの中から、越前藩や四国丸亀藩のお抱え力士になった者も出ている。

 (中略)

 江戸時代も後期になると、江戸大相撲の全盛期となり、博多・福岡での興業は、一七九九年(寛政十一年)の箱崎浜と福岡西町浜の興業を皮切りに、一八〇二年(享和二年)の博多浜小路浜、一八〇五年(文化十二年)の博多櫛田神社境内、一八一一年(文化八年)の福岡西町浜、一八一五年(文化十二年)の那珂川河原、一八二〇、二一年(文政三、四年)の下市小路浜と、ひんぱんに見られる。
 大関雷電・押尾川・千田川等にまじって、筑前出身の田子浦、久留米出身の久紋龍、博多出身の鬼面山・平岩等に人気が集まった。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.142-143

 山笠の巡行は、初めのころは途中で昼食をとったりして、極めてゆったりとしたものであった。それが現在の追山に見らるような、互いに早さを競い合うようになったいきさつについては、「櫛田社鑑」に、一六八七年(貞享四年)の祇園山笠で、石堂流の四番山笠が、途中での昼食を抜きにして、三番山の土居町流を散々に追い上げるという事件があり、それ以後、途中の昼食がなくなった、という逸話が記されている。
 この事件は、その年の正月に起こった、土居町と竪町(石堂流)の若手の喧嘩がもとであったとされているが、『博多津要録』には、一七五六年(宝暦六年)の町奉行所からの通達に「以前より山笠の回るときに先山を追いかけることがたびたびあって、特にこの二十年ほどはそれがあたりまえになり、いつも争いが起こり、けが人も出ている」という内容のものがあって、早さを競うのが慣習化されてきたことを示している。
 奉行所では山笠の紛争を少なくするため、各流の年寄りを集めて注意を与えるほか、一七九五年(寛政七年)には、東町流の六番山が洲崎流の五番山に追い付いたとき、山を止めて先山の離れるのを待ったということで、銭三貫目をほうびとして与えたりもした。
 しかし、早さを競うことは相変わらず続き、のちには山飾りを簡単にして山の重量を軽くしようとする動きさえ現れ、これでは見物に来た他国の人にもすまないと、一八四〇年(天保十一年)には、各流で作り山の飾りには手を抜かない、という申し合わせがなされている。

朝日新聞福岡本部編『江戸の博多と町方衆〜はかた学5〜』葦書房 1995年 pp.134-135

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