DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: March 2016 (page 2 of 3)

 天下分け目の関ヶ原の合戦から三ヶ月ほどたった慶長五(一六〇〇)年一二月八日、黒田長政は家臣を遣わして、小早川隆景・秀秋が二代にわたって居城とした名島城を受け取った。長政は新しい任地と決まった筑前に入り、途中飯塚の大養院に寄り、同月十一日に名島城に入った。翌年元旦、如水・長政父子はこの城で家臣らの年始の礼を受け、それぞれに恩賞地を与えた。二人はさっそく名島城に代わる新しい城の建設地の物色を始めた。名島城は三方を海に囲まれて要害としては申し分ないが、境地が片寄って城下が狭く、平穏な政治が出来にくいというのが、新しい用地物色の理由であった。大藩にふさわしい立派な城郭と広々とした城下町の建設ーーそれが長政らが画いた構図であった。その構想は、名実ともに九州の雄たらんとする、近世の大大名黒田氏ならではのものと考えられる。
 候補地は箱崎、荒津の山、住吉、福崎の四ヶ所であったが、福崎が長政らの心にかなった。この土地の地名を黒田氏の郷里(現在の岡山県邑久郡永船町福岡)にちなんで「福岡」と命名したことはよく知られている。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 pp.127-128

 天下取りという形で家康に花を持たせた如水・長政父子は、九州を避けてその外の地域でより広大な領地を与えようとした家康の申し出を断り、かねてからの予定通り、筑前をものにした。博多を持つ筑前は、天下に匹敵するものと考えてよいかもしれない。というより、あふれんばかりの知力があだになり、天下を逃した黒田氏は、博多を基軸に事実上の天下つまり中央政権を形成しようと考えたのだ。筑紫君磐井の反中央、反体制意識は、期せずして黒田氏に引きつがれていったのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.127

 応仁の乱(一四六七-七七)で京都が荒廃し、公家をはじめ多くの住民が戦乱をさけて地方に下り、文化の地方伝播に一役かったことは、よく知られている。大山崎離宮八幡宮の油神人の九州下向も、当然ありうることだ。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.66

 鎌倉時代末の日本と元の関係は、一口でいえば緊張状態にあった。第三次の元の襲来が予想されたからである。にもかかわらず、二章で述べた東福寺の造営料船の例もあるように、北条氏や寺社は盛んに貿易船を派遣し、日本に来た元僧たちは清新な空気を日本に吹き込むなど、文物交流は盛んであった。その中心地が博多だったのである。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.59

 源頼朝は鎌倉に拠点を定め、鎌倉幕府をつくり、文字通り天下の覇者となった。いわゆる鎌倉期以降の博多の都市的発展(対外関係・モノの流通・文化)を考える場合、禅宗と禅寺が持つ意味を見逃すわけにはいかない。栄西の聖福寺、円爾の承天寺の建設。いずれもこの時期の博多の都市的発展を考える場合の核となる重要なできごとである。
 武家文化を培養した鎌倉禅や、公家の保護を背景に兼修禅を中核とした京都禅と比べ、博多禅は、禅宗のの初伝として、対外文化交渉の門戸にふさわしい発展ぶりをみせた。宗・元などの中国文物の日本への移入役として禅宗を位置づけるべきであり、博多の日本文化史に占める意義は大きい。博多禅は、臨済宗と茶の導入者である栄西によってスタートした。

武野要子著『博多〜町人が育てた国際都市〜』岩波新書 2000年 p.36

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