DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: December 2015 (page 1 of 4)

 叔母は生まれた家から五分段々畑を上がっていった家にお嫁にいった。お嫁にいった家から生まれた家の屋根もカキの木も見えていた。口うるさく耳の遠いしゅうとの世話をし十人の子供を産み育てた。畑仕事の嫌いな亭主が村役場につとめていた。畑仕事は叔母が黙々とやっていた。
 私は叔母が畳の上に座っていたという記憶がない。いとこの家に遊びにゆくと叔母は土にまみれたもんぺ姿でいつも私に向かって笑った。大人が私に向かって笑うことに慣れていない私は叔母が好きだった。いとこは「父ちゃんはむしゃくしゃすると田んぼで働いてる母ちゃんを田んぼに埋めちゃうんだよ」といった。「叔母さん、どうするの」「だまって帰って来て体を洗うんだよ」「おこんないの」「だまっているだけだよ」。私は伯父だって優しく見えたので、この目で見てみたいと思った。
 晩年、叔母は脳軟化症で、五年も子供のようになってしまった。叔母は縁側に座って子供の時のうたをうたった。
 もうお嫁に行って子供のあるいとこは「母ちゃん、嫁に来る前の家に居るつもりだったんだよ」とずっとあとになって私にいった。そして叔母は伯父に自分を縁側からけとばせといった。けとばさないとおこったので、伯父はけとばした。庭にころげ落ちると伯父に自分を背負って裏の天神様まで行けといった。伯父は叔母を背負って石段をのぼりつめると、下りろといった。伯父は「そうか、そうか」といって下り、それをくり返した。
 夜寝る時、側に伯父を寝かして自分と一緒にうたをうたえといった。いつまでもうたえといった。手をつかんでゆらしながらうたえといった。そして死んだ。村のだれもが、五年間の伯父の看病ぶりを「なかなかできるもんじゃない、のぶさんもいい往生ができた」といっていた。
 私は叔母が死んで二週間目に伯父に会った。伯父は庭つづきの墓地に花をさして線香を上げ、私に「うちのばあさんほど偉い女はいなかった」といった。
 脳軟化症の人が、自分が一番幸せの時に戻ってしまうということを聞いていたので、叔母は七十年の生涯のうち五歳か六歳の時だけが幸せだったのだろうか。伯父が人わざを越えた看病をしても叔母にはわからなかったのではないか。
 伯父は「おれはばあさんの看病でいろんなことを教わった。つらいとは思わなかった。本当にばあさんに感謝している」といった時、人の一生を貫く矛盾に混乱した。素朴な生活を続けた伯父がたどりついたものは、私をゆさぶった。
 それから五年たって伯父を訪ねた時、伯父は叔母のお墓をはき清め、キンセンカをかざり、線香を供えていた。墓から叔母が生まれた家の屋根とカキの木が見えていた。

佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 pp.44-46

 沢山の中から選んだから確率がよいともいえない。死ぬの生きるのといって世界に唯一人と思った人と二年で別れてしまう人も居る。どうしても気が合わずに、二十年も口をきかずに同じ家の中で暮らしていた夫婦は、子供達がその子供を持つようになって、両親のどちらにも同情し、二人を別々に引きとろうかと相談している時、母親が病気になってしまった。入院した妻の病院に夫は住み込んで、二人で手をつないで病院の廊下を歩くようになり、風邪を引いて別の病室に移された夫を、妻は看護婦の目をぬすんで会いにゆき、「一分だけ、一分だけ」と医者にせがんだ。つきそいに来ていた夫の方が先に死んだ時、妻は「長いあいだ苦労をかけました。かんにんね」と深々と頭をさげた。
 彼女もまた幸せな人生を持ったのかも知れない。見合いの平凡なめぐり逢いだった。
 やくざにとび込んだ十九の娘は多分沢山のめぐり逢いを一つにしぼり上げた天才だったのかも知れない。
 親のすすめる男と気の染まぬ結婚をしたかも知れぬ娘は、めぐり逢いを人まかせにしたのかも知れぬが、八十を過ぎた夫に一分でも会いたいと思う老後を持つことが出来た。
 友達を沢山持てるめぐり逢いと一生をかけるめぐり逢いは同じものではない。
 結婚へのめぐり逢いは、運というより外はない。

佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 pp.38-39

 愛した男を失った。それは私の中で失われ、失われたものをまじまじと見つめる地獄を知った。あらゆる宗教はやがて失われていく愛をおそれた人間の知恵が創ったのかも知れない。
 ゆるやかに崩壊していった家庭を営みながら、私は一冊の絵本を創った。一匹の猫が一匹のめす猫にめぐり逢い子を産みやがて死ぬというただそれだけの物語だった。「100万回生きた猫」というただそれだけの物語が、私の絵本の中でめずらしくよく売れた絵本であったことは、人間がただそれだけのことを素朴にのぞんでいるという事なのかと思わされ、何より私がただそれだけのことを願っていることの表れだったような気がする。

佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 p.26

 たくさんの友人の慰めと励ましのなかで、受験という日常のなかに私はもどり、イーゼルの前に坐って、今年こそはと思っていた。隣りの空いている椅子に、ふだんあまり話をしたことのない、それでも顔をあわせれば、あいさつも、駅までは一緒に帰るほどのつきあいもする友達が坐った。彼はしばらく黙っていて、「大変だったね」とひとこと言った。私はそのひとことを、しみじみありがたく思った。
 彼は遠い友達だった。
 そのひとことは、彼が、遠い友達のままであるということを明らかに示していたけれど、その遠い友情が私を打った。
 色濃く私を支えてくれた友情の輪の向こうの遠い友情は、遠い星を見て、宇宙が美しいと感じることに似ていた。

佐野洋子著『私の猫たち許してほしい』ちくま文庫 1990年 pp.56-57

 叔母の家は、曲がりくねった路地の奥にあり、もう五十年も昔の家だった。
 路地はまたいくつもの路地につながり、時代劇にでてくるような、玄関の戸の上半分が障子になっている長屋が、地をはうように寄り集まっていた。
 雨が降ると、石だたみがぐらぐら動き、石の下からぐちゅぐちゅと、どろがはね上がった。
 その長屋の小さな庭で、植木屋さんのお妾さんだという人がふんどしを干していたり、袋はりをしている様子が、路地から見えた。叔母の家の隣の玄関先は、ゆかたを着たゆうれいが赤ん坊を抱いてでるのだった。
 ごたごたと家並みが不ぞろいだったけれど、人びとはけっして不潔な暮らしをしているとは思えなかった。夏には路地は水が打ってあったし、玄関の障子を開け放して、すだれがかかっていて、小さな窓に朝顔の花がからみついていた。
 ある朝、窓を開けると雪だった。まぶゆく白い雪が、あたりをまったくちがう世界にしていた。
 ひしめき合っている長屋の屋根が美しかった。叔母の家の少し波うっている瓦も、雪がつもると、波うっていることが微妙な美しさだった。

佐野洋子著『私の猫たち許してほしい』ちくま文庫 1990年 pp.42-43

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