叔母は生まれた家から五分段々畑を上がっていった家にお嫁にいった。お嫁にいった家から生まれた家の屋根もカキの木も見えていた。口うるさく耳の遠いしゅうとの世話をし十人の子供を産み育てた。畑仕事の嫌いな亭主が村役場につとめていた。畑仕事は叔母が黙々とやっていた。
私は叔母が畳の上に座っていたという記憶がない。いとこの家に遊びにゆくと叔母は土にまみれたもんぺ姿でいつも私に向かって笑った。大人が私に向かって笑うことに慣れていない私は叔母が好きだった。いとこは「父ちゃんはむしゃくしゃすると田んぼで働いてる母ちゃんを田んぼに埋めちゃうんだよ」といった。「叔母さん、どうするの」「だまって帰って来て体を洗うんだよ」「おこんないの」「だまっているだけだよ」。私は伯父だって優しく見えたので、この目で見てみたいと思った。
晩年、叔母は脳軟化症で、五年も子供のようになってしまった。叔母は縁側に座って子供の時のうたをうたった。
もうお嫁に行って子供のあるいとこは「母ちゃん、嫁に来る前の家に居るつもりだったんだよ」とずっとあとになって私にいった。そして叔母は伯父に自分を縁側からけとばせといった。けとばさないとおこったので、伯父はけとばした。庭にころげ落ちると伯父に自分を背負って裏の天神様まで行けといった。伯父は叔母を背負って石段をのぼりつめると、下りろといった。伯父は「そうか、そうか」といって下り、それをくり返した。
夜寝る時、側に伯父を寝かして自分と一緒にうたをうたえといった。いつまでもうたえといった。手をつかんでゆらしながらうたえといった。そして死んだ。村のだれもが、五年間の伯父の看病ぶりを「なかなかできるもんじゃない、のぶさんもいい往生ができた」といっていた。
私は叔母が死んで二週間目に伯父に会った。伯父は庭つづきの墓地に花をさして線香を上げ、私に「うちのばあさんほど偉い女はいなかった」といった。
脳軟化症の人が、自分が一番幸せの時に戻ってしまうということを聞いていたので、叔母は七十年の生涯のうち五歳か六歳の時だけが幸せだったのだろうか。伯父が人わざを越えた看病をしても叔母にはわからなかったのではないか。
伯父は「おれはばあさんの看病でいろんなことを教わった。つらいとは思わなかった。本当にばあさんに感謝している」といった時、人の一生を貫く矛盾に混乱した。素朴な生活を続けた伯父がたどりついたものは、私をゆさぶった。
それから五年たって伯父を訪ねた時、伯父は叔母のお墓をはき清め、キンセンカをかざり、線香を供えていた。墓から叔母が生まれた家の屋根とカキの木が見えていた。
佐野洋子著『私はそうは思わない』ちくま文庫 1996年 pp.44-46
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