DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: July 2015 (page 2 of 2)

 キュレーターは、得体の知れない含意と奥行きを秘めた、時を超えた芸術作品(マスターピース)と、表象批判の先鋭のような実験的な作品(カッティングエッジ)をともに扱いながら、現在にそれらが存在することの意味を、展覧会として問いかける。観客や批評界からのフィードバックをもとに、新たな芸術表現を次々と歴史の通時的な軸の中に組み込み、文脈化していくのだ。一方で巧みなテーマ立てや作品の選択、ディスプレイ、場の設定で、鑑賞者を誘惑し、心身ともに鑑賞体験、参加体験に没入させるさまざまな専門知識と戦略をもつ。人びとの意識を変えるという確信犯的目的に基づき、視覚を通した集合意識、集合記憶をすくいとり《文化》としてフォーマット化し、次代に接続しようとする善意の歴史家。それがキュレーターである。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.24-25

 展覧会とは、平たくいえばモノ(作品)の移動である。それが展示室の配置移動にせよ、文化の異なるA地点からB地点への移動にせよ、とにかく移動させる。A国の文化を知らないB国の観客にとって、作品はときにはまったく異質のものとして理解できないか、誤解のうちに受け入れられることも多い。アカデミズムを重視する学者はその誤解を批判するが、キュレーターは、誤解を怖れることなく、それを新たな解釈の生成とみなし、つぎなるアプローチのための糧とするのである。
 私たちは、生まれ育ってきた文化や情報環境の蓄積と、直感や感性を総合して、対象の意味をとらえている。例えば村上隆のフィギア彫刻は、欧米の鑑賞者にはエキセントリックにデフォルメ(大きな目や胸など)されたポップアートの彫刻に見えるのに対して、日本のアニメオタクにとってそれは出来の悪い(精度の低い)フィギアの一つになる。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 p.16

 特に物理的存在である作品と身体とが出会う経験においては、身体知とでも呼べる総合的な知性のありかたが重要となる。視覚芸術は、音楽、演劇、舞踏などと異なり、意味・記号的言語と、作品の存在論的言語とが複雑な層となって構成されている。それは、文節可能な世界とそうでない世界の境界にまたがって存在する。アート作品には分析が困難な、異なったレベルの抽象化がなされており、それには感情にコミットし、かつ偶然、予測不可能性、超現実といった想像力の分野に関わっているからだ。この不確実な、怪しい、底の知れないソフトウェアを伝達することは、ギャンブルに近い。挑戦的な仕事といえる。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.11-12

 いい作品はどう判断するのかと、よく聞かれることがある。長いこと記憶に残っている作品と答えることが多いが、では若い作家の作品を最初に見たとき、その場でどう判断するのか。それは、その作品が視覚の中に「到来する」「侵入してくる」という以外には表現のしようがない。それは、視覚的インパクトという表現ではすまない何かなのである。こちらの視覚的記憶の蓄積とそのたびごとに積み重ねてきた解釈や判断の集積により、経験あるキュレーターの眼はたえず既視感にさらされている。その既視感ブロックを破って侵入してくる作品は、そこだけモノクロから総天然色になったときのような新鮮さがある。

長谷川祐子著『キュレーションー知と感性を揺さぶる力』集英社新書 2013年 pp.4-5

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