去年の10月の終わりに上京した際、もう一カ所訪ねた場所があった。永井荷風が大正9年から、空襲で焼け出される昭和20年まで住んでいた偏奇館の跡地である。在京している間も訪ねてみたいと思いながら何となく行かず仕舞いであったが、これまた川本三郎が著した「荷風と東京」を読んで改めて行きたくなった。上巻の「崖の上の家ー偏奇館独棲ー」の中にはこうある。
サントリーホールや全日空ホテルのある六本木アークヒルズから飯倉に向かう道を左に折れると、道源寺坂と西光寺という寺が相接してある。両寺にはまだ小さいながらも墓地が健在で、その墓石を見下ろすようにアークヒルズの建物が建っている。
この道源寺坂をのぼった崖の上が、荷風の偏奇館のあった麻布市兵衛町である(現在の町名は六本木一丁目)。このあたりはいまでもアークヒルズの隣接地とは思えないような古き良き、静かな町である。個人の住宅がまだ何軒か残っているし、細く、曲がりくねった道が、車が入ってくるのを拒んでいる。(中略)
道源寺から、まさに「間道」のような細い道を右に折れ、左に折れしながら歩いて行くと崖の上に出る。そこにヴィラ・ヴィクトリアという五階建ての小さなマンションが建っている。そこが荷風の偏奇館があったところで、マンションの傍に港区教育委員会が昭和五十二年建てた「偏奇館跡」のささやかな碑がある。碑のそばに、沈丁花が植えられている。沈丁花(瑞香)は荷風が好んだ花のひとつ。
川本三郎著『荷風と東京(上)』岩波原題文庫 2009年 pp.98-99
そして章末にはこんな注意書きが添えられていた。
追記 この原稿を書いてから、偏奇館周辺は地形を変えてしまうほどの再開発によって激変した。偏奇館のあとに建てられていたヴィラ・ヴィクトリアはいまやあとかたもない。現在は、泉ガーデンタワー(二〇〇二年竣工)という大きなビルが建っている。敷地内に偏奇館跡の小さな碑が作られているのが救い。
川本三郎著『荷風と東京(上)』岩波原題文庫 2009年 p.110
読む限りかなり残念な状況になっている様子が伺えるが、取り敢えず行ってみる事にした。
この日、実際には森美術館で展覧会を観てから行ったのだが、地下鉄に乗る為に深い階段を上り下りするのが煩わしくて結局六本木一丁目まで歩いた。で、この写真は六本木一丁目駅付近に向かって撮ったもの。右側に見える白い高層ビルが泉ガーデンタワー。
そして、六本木一丁目駅の出口を越え、六本木二丁目交差点の手前で右に折れ、細い坂道の少し登ると西光寺がある。
道源寺坂と呼ばれるそうだ。坂道は緩やかに弧を描きながら続いていく。
すると道源寺の山門が見えてくる。これを過ぎて坂を上り切ったところが崖の上、という感じでもなかった。なんせ見晴らしというものがないのだ。そしていよいよ偏奇館跡碑は何処だろうと探し始めた。上図を見ると簡単に行き着きそうだが、実際にはかなり探した。泉ガーデンの敷地内である事は間違いないだろうと、隈無く歩いてみたが見つからず、変だなあと敷地の周りを歩いていたら見つけた。
生け垣の外側ではあるが縁石の内側で、これは確かに敷地内である。もっと見えづらい場所にうち捨てられたような佇まいを想像していたので、予想外であった。
平成14年の日付があるが、もともと在った碑を移したのだろうか。しかし教育委員会がねぇ、荷風をねぇ。何だか妙な感慨があった。実は、僕がこの碑を見つけた時には先客が居た。60代と思しき男性が佇んでおり、一頻り眺めた後に写真を撮って立ち去って行った。なので僕は少しの間待っていたのだ。貴方も荷風お好きなんですか? と話しかけても良いような気もしたが、そんな馴れ合いを荷風は好むまいと思い、止めておいた。
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