中洲という土地はその名の通り、南に那珂川、北に博多川、その二本の川に挟まれている。那珂川は川幅が広く両岸には屋上に広告塔を掲げるような大きな建物が多く、賑やかな雰囲気で人通りも多い。でもオレは博多川の方が好きだ。用水路を少し広くしたくらいの川幅で、両岸に在るのはマンションなどの二階建てや三階建ての建物ばかりだが、静かなところが気に入っている。繁華街の裏道の情緒があると思う。そしてオレは今、歩道から階段で降りて水面近くまで下がった場所で煙草を吸っている。地面は石のタイルが敷き詰められているが、大小の石のベンチがところどころに置いてあり、ちょっとした水辺の公園のようになっている。オレはその一人用のベンチに腰掛けている。水面が近く、暗い川面を街灯やビルの僅かな灯りが照らしている。オレはさっき仕事を終えたところだ。
オレの仕事は中洲に在るとあるソープランドのボーイだ。そこで嬢の世話をしたり、プレイの終わった部屋の掃除をしたりしている。この仕事に就いたのは三年ほど前、働いていた会社が潰れたので、生活の為に間に合わせで働き始めた。しかし思いの他仕事が苦にならないばかりか、オレは割と店で重宝されている。長く続ける気は毛頭なかったのだが、居心地が良いので気付けば三年経っていた。かと言って先の事は何も考えていない。このままではいられないだろうな、と時々考えるくらいだ。取り敢えず出来る事をやって、それで飯を食っている。そんな感じだ。
元々はオレは電気工事師だった。工業高校を卒業して、すぐに小さな会社に就職した。数年が経ち、オレがどうにか仕事を覚えた頃にその会社は倒産した。そして間もなくして、同じくらいの規模の会社に再就職した。その会社では結局十数年働いたが、その会社も三年前に敢えなく倒産。給料は据え置きのまま、利益の少ない仕事を数多くこなす事でどうにかするという体制で長らく働いていたせいか、かなりオレは疲弊していたようだ。次の就職先を探す事もせずに毎日ブラブラして過ごし、貯金が底をつき始めたところでようやく重い腰を上げた。それでどうしたのかと言うと、残り少なくなった金を叩いてソープランドに行った。馬鹿な事をしているという自覚はあったが、そういう馬鹿な事をしたかったのだ。目に付いた店に飛び込み、待合室で嬢の写真を見せられながら、ボーイがいろいろ振ってくる世間話を適当に応えていたらうっかり求職中である事を漏らしてしまった。なかなか就職活動する気になれない事も含めて。するとボーイは断りを入れて中座し、やがて別な男を連れて来てオレを紹介した。その男は店長だった。そしてどういう訳か、オレがこの店で働きたいと言っている事になっていた。驚いたが、何だか面倒になってオレは話を止めなかった。後から聞いた話だと、そのボーイは客の呼び込みや接客をするのは良いが、嬢の世話をしたり部屋のメンテナンスをするのが嫌で、その仕事を押しつける為にもう一人店員が欲しかったそうだ。しかし店長はその思惑を知らない。彼が考えていた事は、この男なら用心棒的な使い方が出来るかも知れない、そう考えていたそうだ。
オレは見た目が結構恐い、よくそう言われる。身長は178センチ、体重は90キロに届かない程度。そして何よりも顔が恐いらしい。自分としては物心ついた時からこうなので、ゴツい顔してるなあくらいは思うが、他人を怖がらせている自覚は全くなかった。しかし度々そう言われるので、オレとしては親しい人を怖がらせるのは不本意だという事もあり、なるだけ目立たないように控えめに振る舞ってきたように思う。しかしそんなオレの風貌を店長が見込んでくれたという訳だ。そして敢えなく話をまとまってしまい、オレは次の日からその店で働く事になった。少し前にボーイが一人辞めたので、人出足りなかったという状況も後押ししたようだ。自分でも、そういう話の流れでよく断らなかったものだと思うが、どうでも良かったのかも知れない。きっといろんな事が面倒だったのだろう。
ふいに女の声で話しかけられた。
「タジマさん」
振り返ると、階段の降り口にナミちゃんが立っていた。ウチの店の風俗嬢だ。年齢は19歳、福津市の実家から通っている。彼女は母親と二人暮らしで、母親に言われてこの仕事に就いたらしい。母親はフルタイムで仕事をしているようだし、何故そんな事になるのかよく解らないが、本人がそう言っているので仕方がない。彼女はウチの店に来て半年経つが、最初っからずっとこの仕事を嫌がっている。そりゃそうだろうと思う。大概の嬢はそうだ。よほどの物好きか、困窮の苛烈さに感覚が狂っているか、そのどちらかでないと嫌で仕方がないだろう。彼女は入店以来、見かける度に鬱々とした表情をしていた。そして在る時、オレが部屋のメンテナンスをしている時に戻ってきた彼女が、独り言でも言う感じで店を辞めたいと言ってきた。オレはつい「頑張ろう」と彼女を慰めてしまった。自分はまったく何も頑張っていないのに、よくそんな事言えたものだと思う。しかしこんな店で働く彼女達はそれなりの事情があり、これしかないと決めて来てるのだと思うので、それならば頑張るしかないのではないかと思ったのだ。無責任だとは思うが、それしか言えなかった。
それからどうした訳か、時折彼女から話しかけてくるようになった。変に信頼されてなければ良いな、と思いながらもそれに応じた。そして一月過ぎる頃には、仕事が終わった後に喫茶店やファミレスに入ったり、屋台でラーメン啜りながら彼女の愚痴を聞いた。問題はない。それがオレの仕事の一つでもある。彼女に限らず、何人もの嬢がオレに愚痴をこぼす。嬢同士の付き合いは殆どないそうだが、何故かしら愚痴を聞かせるならオレだという事になっているようだ。彼女達は何をどう見てそれを判断しているのか、オレには全然解らない。もしかしすると、店長や他のボーイが薦めているのかも知れない。
「なんしよっとね。もう帰ったとやなかったと?」
「友達が出てきとったけん、一緒に呑みよったと」
「呑みよったって、あんた未成年やろうもん」
「たまにはよかっさい」
「たまにはとか、そげんか問題やなかろうもん」
「よかやんねって。うるさかねー」
「そりゃまぁ、よかばってんが」
彼女はそこで言葉を切って、辺りを見回していた。そして一呼吸おくと、こう言ってきた。
「タジマさんあのねー、ウチ、年越したら店辞めるけん」
「そうね、決めたとね?」
「うん、決めたー。やっぱウチにはこの仕事向いとらんごたー」
「そんならしょんなかね」
「うん」
「来年からはどげんすっと? 食べて行かんといかんちゃろうもん」
「わからん。これから考える」
「そげんね。まぁ、すぐには決めれんけんね」
「うん、全然わからん」
彼女は夜空を見上げながらそう言った。川沿いの通りを、救急車がけたたましいサイレンを鳴らしながら走り抜け、赤い回転灯の光が夜の空気をかき乱した。
「辞める日には挨拶に行くけん」
「おう、待っとるばい」
「じゃあ、ウチ帰るけん」
「気ぃつけて帰らんね」
「うん」
ナミちゃんが立ち去ったのを見届け、オレは煙草の火を消した。彼女は母親と住む家を出たがっているのではないかと、俺は思っている。何故なら、当初は客の横暴さや汚らしさを愚痴っていたのだが、次第に母親の話をするようになった。自分のやる事にいちいち口を出され、監視されてるような気分になるのだそうだ。きっと家を出る算段がついたので店を辞めるのだろう。時刻は10時少し前。いつもならまだ店は開けているが、大晦日の日には早くに閉める。川面を吹き抜ける風は冷たく、オレは腹が減っていた。
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オレは中洲を南に歩き那珂川沿いの通りに出た。屋台がずらりと並び賑わっている。オレはその中のひとつ、焼き鳥を出す馴染みの屋台の暖簾を潜った。とは言え、この時期は寒いので屋台全体を透明なビニールシートで覆っている。なので気分的には穴蔵に潜り込むような感じだ。それほど混んではいなかったが、オレは縁台の端に座った。すかさず店の主人が声をかけてくる。
「いらっしゃい。今日はもう仕事終わったとね?」
「うん、今日は早仕舞いたい」
「そげんね、もう大晦日やけんねぇ。何にする?」
「ネギマとズリば二本ずつくれんね。そいと焼酎のお湯割り」
「よしきたっ」
すぐにお湯割りを出されたので、一口啜った。冷えた身体に染みる。
「旨かねぇ」
「寒かけんねぇ」
オレは頭が痺れて何も考えられないでいた。頭の奥に何かわだかまりがあるような気がしたが、それが何なのか判らなかった。疲れているのかも知れないし、寒さのせいかも知れない。焼酎の味だけが現実味を帯びていた。そのモヤモヤしたものを振り払うようにオレは主人に話しかけた。
「大将、今日は繁盛しよるね?」
「うーん、早い時間は客の多かったとばってん、だんだん途絶えてきたねぇ」
「今日はみんな早く帰るっちゃろ」
「そうやろねぇ」
その時、ビニールシートが勢いよく開いて男が入ってきて、オレの隣に座った。
「お、タジマさんやんね。久しかぶりやねぇ」
「何言いよっとねチョウさん、先々週も会うたやんね」
「そげんやったっけ。大将、オレにも焼酎ばくれんね?」
「お湯割りでよかと?」
「よかばい」
チョウさんは在日韓国人三世で、中洲に在るバーのオーナーだ。歳はオレより二こ下。この屋台で何度か顔を合わせるうちに、何となく話すようになった。
「チョウさんとこも今日は早仕舞いね?」
「大晦日に客はあんまり来んけんね、毎年そげんたい」
「今年もお疲れさんやったね」
「そっちこそお疲れさん」
俺達はコップを打ち付けて乾杯した。焼き鳥が上がったので、串を掴んで頬張る。いつもながら旨い焼き鳥だった。
「そうそう、今度会うたら話ばしようと思うとったとばってん」
「なんね?」
「そろそろウチの店に来んね?」
「またその話ねー」
「またこの話たい。もう半年経つとばい。年も変わるし、そろそろよかろうもん」
そう、オレは半年前からチョウさんに自分の経営するバーで働かないかと誘われている。オレは今の生活を当分は変えたくないと思っていたので、何となくはぐらかしていたのだ。彼の経営するバーは会員制で、客は中洲で働くホステスやキャバ嬢や風俗嬢ばかりだ。バーとは言え、しっかりした料理も出す。この季節は小さな土鍋で出してくれる鶏すきが絶品だそうだ。
チョウさんは元ホストで、そこで必死に働いて溜めた金を元手に今のバーを開いた。最初っから今の客層を狙っていたのだそうだ。元ホストならお手のものだろう。彼はホストとして働いている時から、中洲の彼方此方の店で呑んだり食べたりしながら、将来開く自分の店に雇うバーテンダーや料理人を物色していたのだそうだ。判断の基準としては、バーテンダーや料理人としての腕は勿論、男前である事、そして物腰が柔らかい事。チョウさん曰く、言葉や行動に少しでも暴力の匂いが混じっていると、女の客は寄りつかないそうだ。彼はそれをホストの仕事を通じて学んだとか。そうしてチョウさんは、長い時間をかけて見込んだ男達を口説き落とし、自分の店に引き抜いた。その結果、彼の店は狙い通りに繁盛している。しっかり準備して、ちゃんと気ぃ遣って仕事したら、女どもは金ば落としていくけんね。何度となく聞かされたチョウさんの台詞だ。因みに彼自身も相当な男前だ。
「何度も聞いたばってん、そげんか男前の揃うた店にオレんごた男が混じるっちゅうのがよう解らんばい」
「そこが良かったい」
「意味の解らんばい」
「解っとらんねー。ウチん来る客からいろいろ聞いとっとばい。あんた顔は恐かばってん優しかち。いろいろ話ば聞いてくれるち。今オレんとこにおる従業員は、料理人はそげんか事に慣れとらんし、バーテンダーも上辺だけの返事しかしきらんけんね。ちゃんと女の話ば聞ける男が欲しかと」
ウチの店の嬢の中に、チョウさんの店の常連が居る事は本人から聞いていたが、そんな風に言われているなんて初めて知った。
「ユミちゃんね?」
「そげん。でもそれだけやなか。サラちゃんもノアちゃんも同じ事ば言いよるばい」
「そげんやったとね、知らんやったー」
「まぁそうやろ。そげんかこつは言わんやろ」
「そいならホスト雇えばよかろうもん。話ば聞くとは得意やろ」
「あいつらは個人営業ば始むるけんいかん。あくまでウチの店主体でやって貰わんと」
「そげなもんやろかね」
「そげなもんたい。オレなら絶対そうするけん」
「そりゃ確実やねえ」
チョウさんはああ言ったが、オレは別に女の話を聞くのが得意な訳ではないと思う。強いて言えば、愚痴を聞き流すのが習慣としてあるというくらいだ。オレの家も母子家庭だった。バスの運転手をしていた父親は、或る日仕事の帰りに自分の車を運転しているところを事故に巻き込まれて死んだ。オレが中三の時だ。オレと四つ下の妹を抱えた母親は途方に暮れたらしいが、看護士としての稼ぎと親類の援助やなんかでどうにかなったらしい。今はもう引退しているが、介護士の免許を取ってヘルパーの仕事を時々やっているそうだ。妹も看護士をやっていたが、今は結婚して大阪に住んでいる。母親も妹もよく喋るので、オレは逃げ場もなく彼女らの愚痴を聞かされ続けるのだが、そんな暮らしの中で適当に聞き流しながら話を相手をする習慣が身についたのだと思う。就職してからすぐにオレは家を出て独りで暮らし始めたので、それ以来そういう機会を持つ事はあまりなかった。オレは殆ど連絡をしないが、母親と妹は今でもよく電話で話したりしているようだ。仲が良いのかどうかはよく判らない。
そういう訳で、オレとしては習慣的に頷いたり相づち打ったり聞き流したりしながら過ごしているだけなのだが、それが好意的に受け止められているという事じゃないだろうか。なのでその部分を褒められたところで、オレにはどうにもピンと来ない。
「ところでっさい」
「何ね、ウチん来てくるっとね?」
「いやその話やなか」
「何ね、考えてくれんと?」
「考えるったい。ちゃんと考えるけん、その話はちいと待っとってくれんね」
「ならよかたい。で、何ね?」
「こん正月も向こうに行くと?」
「ああ、行くばい。明後日行ってくる」
「偉かねえ」
「こういう事はキチっとしとかんとね」
チョウさんの奥さんはプサン産まれの韓国人で、その家族は今もプサンに住んでいる。彼は毎年正月に奥さんの両親の家で過ごす事を常としている。チョウさん曰く、向こうの両親に結構気に入られているそうだ。
「タジマさんはどげんすっと?」
「オレも一応顔出す気ぃじゃおる」
「お母さんは元気にしとらすとね?」
「妹の話やと、最近体調崩しとるらしか」
「そげんね。ほいじゃあ帰らないけんね」
「オレもそげん思うとる」
「そいが良か」
「チョウさんは? 自分とこには帰ってあげんとね?」
「ウチはちょくちょく行きよるけん、年明けに顔出すだけたい」
チョウさんの実家は福岡市内なので、奥さん共々結構行き来があるそうだ。オレの実家、というか母親の住む家は糸島市に在る。そんなに遠い訳ではないので用事があれば行くが、母親と二人っきりで過ごす時間がどうにも居心地が悪いので、やはり滅多に行かない。母親が寂しがってるような事を妹からたまに聞くが、だからと言って行く気にはなれない。妹も年が明けてから顔を出しに帰ってくると言っていた。彼女には息子が居るが、そろそろ小学校に上がる頃じゃないだろうか。
「ほいじゃ、オレはそろそろ上がるけん」
「そげんね、奥さんによろしくね」
「言うとく。嫁もタジマさんによろしくげな」
「何ね、なんでオレん事ば知っとるとね?」
「何度か話したけん」
「は? 何で?」
「何でち、そんだけあんたば見込んどるちゅう事やろうもん」
「よう解らんばい」
「何ねー。ウチに来る話はちゃんと考えといてばい」
「解ったち。よう考えるけん」
「頼むばい。年明けにあんたの考えば聞かしてくれんね」
「んー、わかった」
「じゃあ、良いお年を」
「良いお年を」
チョウさんは来た時と同じように颯爽と出て行った。オレはそれからもう少し呑んで店を出た。川沿いの道を歩きながらオレは取り留めのない考えに耽っていた。今の店を辞めてチョウさんの店に移ったとして、一体何が変わるのか。さほど変わるようには思えない。飲食の仕事は経験がない事を伝えたが、チョウさんはそれも含めての話だと言っていた。
「バーテンダーの真似事くらいはして貰うばい。ちゃんと教えるけん」
「うまい事やれる自信はなかばい」
「そんときはまた考えるたい。雑用もいっぱいあるけんが、ボケっとしとる暇はなか」
「そげなもんね」
「とにかく手の掛かる仕事やけんね」
オレとしては独りで黙々と作業をしてる方が好きで、そろそろ電気工事師の仕事を復活させたいとも考えてもいる。しかし今どきはその職も求人が少なく心許ない。贅沢を言えるような立場ではないのだ。とは言え、自分がこのまま夜の中洲で水商売をやっていけるような人間だとは思えない。中洲川端商店街の入口が目に入ったので、オレはそこを通り抜ける事にした。この時間だと通行人も開いてる店も少ない。蕎麦屋の前で、年越し蕎麦のセットを売っていた。麺とつゆと薬味のセット。
「寒かですねぇ。蕎麦で暖まらっしゃらんね」
「二人分くれんね」
「ありがとうございます。800円になります」
「良いお年を」
「良いお年をー」
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オレは地下鉄に乗り込み西へ向かった。姪浜駅の少し手前から線路は地上に出る。駅の周囲には10階建て以上のマンションなどが建ち並んでいて、天神や博多へ働きに出る人々のベッドタウンとなっている。姪浜駅から先は JR 筑肥線となり、西へ進むに連れ建物は低くなっていく。マンションの代わり二階建てのアパートや一軒家が線路沿いを覆うようになる。やがて今津湾の傍の松林を横目に走り抜けるとトンネルに入る。そしてそれを抜けると、住宅の合間に田畑や用水路が目立つようになり、そうこうしてるうちに筑前前原駅に着いた。母親は今、この町に独りで住んでいる。
南口には大きな A コープの店舗があるが、その先は直ぐに丘陵が始まる。斜面には広い庭を持つような邸宅が多く建っている。変わって北口から出ると、コンビニ、居酒屋、饅頭屋、不動産屋、病院、信用組合、銀行などの小さな店舗が道路沿いに建ち並ぶ。その道路を右に進んで行くと、左側に虹を模したアーチが見える。イリスロードという商店街だ。ここにはさらに様々な商店が軒を並べていて、割と賑やかな通りだ。その通りの途中の左、横道に入って行ったその先に母親の住むアパートが在る。
もっと静かな、例えば南口のような場所に住めばいいのに、と母親に言った事がある。しかし母親曰く、家族で住んでいる家ばかりの場所に年取った単身者が住むのは嫌なのだそうだ。たぶん寂しくなるのだろう。周りが賑やかだと気が紛れるし、年寄りも多いので北口に住んでいるとの事だった。そう言われるともう何も言えなくなった。妹は何度か大阪に母親を呼び寄せようとしたらしいが、母親はそれを断り続けているのだそうだ。理由はよく解らない。土地に拘りを持つような人だとは思えないが、付き合いのある人は多いようなので、それが原因なのかも知れない。歳を取って知り合いが誰一人居ない土地に移り住むのは、そりゃ酷だろうとは思う。
アパートに着いた。母親の住む部屋は二階だ。昼間に電話で行く事を伝えていたので、玄関の鍵は開けてあるだろう。いつもそうだった。母親が言うには、出たり入ったりしているので、せっかくオレが訪ねて来た時に部屋に入れないのは可哀想だから、という事だそうだ。不用心なので閉めておくように言うのだが、来ると判っている時にしかそうはしないから大丈夫だと言う。全然納得出来なかったが、母親がそうしたがっているのだと思うので無理強いはしなかった。
オレは階段を上り、母親の部屋の前に来た。振り返ると、ひしめくように立ち並んだアパートの窓々から暖かく優しげな灯りが漏れていた。そして見下ろした先には、半纏を羽織った爺さんが街灯に照らされながらよろよろと歩いている。その後ろをネコが走り抜けた。オレは玄関の扉を開けた。
「母ちゃん、今帰ったばい」
オレは靴を脱いで、ドスドスと音を立てながら台所を通り抜け、その先の襖を開けた。母親は炬燵に横になってテレビを観ていた。
「なんしょったとね。紅白はもう終わるばい」
「よかよか。そげんかこつより蕎麦食うね?」
「何ね、あんたが作ってくれるとね?」
「そげんたい。食うね?」
「じゃあ貰おうかね」
「任しとかんね。美味かつば作るけん」
「珍しか事もあるもんやねぇ」
「たまにはよかろうもん」
「そうばってんやん」
「何ね」
「いや、何もなか」
「そげんね」
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このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。
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