DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: August 2012 (page 3 of 6)

残酷と金魚

 幼少のころより、金魚になにかしらの感心を持った覚えがない。両親や弟たちが飼いはじめる事もなかったし、友人の家や病院に鎮座している水槽の中を泳いでいるのを、ごくたまに見かける程度であった。そして見たところで、小さめの金魚は可愛らしいと思えたが、デメキンなどの大きな金魚は身体がぶくぶく膨れているものが多く、薄気味悪いなぁと思っていただけであった。そんな風に、金魚を飼うなんてのは自分には縁遠いものだと考え、ずいぶんと大人になるまで一切接してこなかった。

 そして10年ほど前、人につれられて東京都は文京区本郷にある金魚坂に行ったことがある。サイトにあるように、元は金魚の卸業を営んでおり、副業としてレストランおよび喫茶店を経営しているようで、僕らは取りあえずお茶を飲み、一息吐いたところで卸部のスペースへ見物に行った。いくつもの生け簀に、売り物の金魚が種類ごとに何百匹かの単位で振り分けられていた。ひとしきり眺めたあとに外へ出ようとすると、入口近くに売り物ではなさそうな青絵の磁気鉢が置いてあった。覗きこむと、内側にもびっしりと描かれた青絵を背景に、わずかな水草が揺れるあいだを小さな金魚が三匹泳いでいて、僕は思わず息を呑んだ。
 それはとても美しい一枚の絵だったのだ。要素の全てが清涼で、鮮烈な色彩を放ちながらその絵は成立していた。そこで僕はようやく金魚を愛でるというのはどういう事なのか理解した。生き物を絵の中に閉じ込め、それを丸ごと生きた絵画として鑑賞するものだったのだ。(金魚坂のサイトにアクセスした際に、最初に表示されるフラッシュ画像に似たようなものが出てくる。僕がそのとき観た磁気鉢はもっと濃く鮮やかなものであったが)これはもう贅沢品どころの話ではない。残酷な嗜好品である。冷静に考えれば当たり前なのだが、鑑賞するために生物を生かすことの傲慢さが金魚の美しさをさらに際立たせているように思う。

 僕がそれまでに見ていた金魚の容れ物は、無粋な水槽か、せめてガラス製の金魚鉢であった。水槽は飼育のための装置であり、鑑賞するための器だとは思えない。かたや金魚鉢はいささかその趣きはあるが、湾曲したガラスを通して肥大化した金魚とにらめっこするのに向いているくらいのように思える。やはり鉢に容れて、上から眺め下ろすのが一番良いのではないだろうか。上では青絵の鉢を挙げたが、青滋でも白滋でも、藍や黒の釉薬を塗ったものでも何でも良いと思う。(武相荘には藍地の鉢が軒下に置いてあったと思う)僕もその飼い方なら金魚を欲しいと思うが、その他の飼い方ならやはり興味は持てない。

 しかし考えてみれば、金魚を飼育していれば水草や藻でだんだんと鉢の中が汚れてくるのではないか。そうなると、画布をキレイに保とうとするならちょくちょく掃除しなければならず、それはかなり大変な作業であるように思うし、もしかすると普段は飼育用の鉢で育て、鑑賞したい時に限って別な鉢に水草とともに移して、酒でも呑みながら眺め下ろすのが良いのではないだろうか。

詠句

線路わき風にあおられ狗尾草

詠句

越したさき庭には紅き秋海棠

土産にと下げたひとかぶ断腸花

詠句

墓参り久しき従姉妹大人びて

掃苔す墓石のまわりに蟻地獄

詠句

ねこじゃらし路肩で揺れる風のいろ

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