DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: December 2011

大つごもり夜話

 スーパーの入口の横、壁に貼りだされたチラシを私は眺めている。仕事収めの帰り。ななめがけにした布製のバッグが肩からずり落ちそうになる。それを左手で受け止め、右手にさげたポリ袋を持ちなおす。食品売場は既におせちやその他お正月用のものばかりが並んでいて、否応も無くお祭り感がただよっている。日常で使う食材は野菜やレトルトなどのパッケージ商品があいかわらずの場所に陳列されているだけ。私はそちらの棚で買い物をすませた。

 私はどうしても、こういうお祭り的な雰囲気に入りこめない。騒がしくてイヤなのだ。もしかしてそれは私の育ちのせいかもしれない。騒がしい家庭だった。私はそれがとても嫌いで、いつも独りになりたいと思っていた。

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 父はこれまでに三度会社をおこし、三度とも倒産した。そして現在四度目に挑戦中だ。家族はもちろんその渦中で翻弄される。生活の不安もかえりみずに父は私財を投資し続けた。三度目の倒産の後、ちょうど専門学校を卒業出来た私は家を出た。父はものすごく反対したが、私は負けなかった。私が欲しかったのは安定した生活だ。地道に働いていればそれなりに暮らせる毎日だ。父の影響下にいる限りそれはないと思った。私には二人の兄がいる。彼らは父の仕事を手伝う形で家にずっといるが、大人になってからは余り話したこともない。彼らは父に似た性質を持っているのか、それとも父に合わせているだけなのか、何かしら反抗している姿を見たことがない。私にとっては同類の人間だ。母だけは違うだろうと思っているが、彼女は父に従うばかりで、何か相談をしても「それはお父さんに相談しなさい」と言ってしまうような何もない人だ。そんな人達の中で暮らしていると、いつのまにか私は家族の中で孤立し、結果として独りで過ごす時間が多かった。

 そんな彼らからは「おまえには表情がない」「何だか怖い」とよく言われた。そりゃそうだろう、と思う。家族の中でたった独りそこに居ることを拒否しているのだから当たり前だ。この人達はそんなこともわからないのかと、私はさらにくすぶった。でも困ったのは、私は家にいる時以外でも同じ表情をしているらしい。学校の友達にも言われたことがある。私が男の子にモテなかったのもそのせいかもしれない。学生の頃に一人だけ付き合ったことのある男の子からは、「何を考えているのか全然わからないから辛い」と言い残されてフラれた。あの時はすごく落ち込んだな。ただその場合は、付き合ってるうちに男の子の横暴な面を見てしまうと、父や兄達の事を思い出し、げんなりしてしまって私は反射的に閉じてしまうのだ。そんな時には私はきっと能面のような顔をしているのだろう。でもそれはしょうがない。しょうがないよ。だってイヤなのだ。その人から離れたくて仕方なくなってしまうのだ。

 そんなことがあってから、私はさらに独りで過ごすようになった。そしてそれがとても気に入っていた。文具メーカーにデザイナとして就職した私は、毎日決まった時間に出社し、遅くなることが多いけど、一日しっかり働いて、帰りに駅のそばのスーパーで買い物をして部屋に帰る。安売りしていたお総菜をそのまま食べたり、作り置きのものを温め直して食べたり、録画していたドラマを観たり、本を読んだり、ぼんやりしたり。誰も私の邪魔をしないし、とても幸せだと思った。
 固定電話は置いてないし、携帯の番号も家族には教えていない。友人や知人とはメールでのやりとりだけだから、非常識な時間に電話で起こされることもない。経済的に自立したことで、私は穏やかで理想的な生活を手にすることが出来た。私はそのことがとても誇らしい。ただほんのちょっと、これは生活が安定していて余裕があるからだと思うけど、誰かが私の生活圏内に入り込んできても、悪くはないなと思っている。それはまだ、ほんのちょっとという限定的なものだけれど。

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 レジで支払いをすませると、私はスーパーの外に出た。するとそのまわりで正月飾りを売っている人達がいた。吹いてくる風が冷たいので、マフラーをキツく巻き直しながらそれらの商品を眺めてみた。個人でやっている人がこの場所を借りて商売をしているのだろう、商品はどれも、どことなく質素な雰囲気があった。その中に、小ぶりで可愛らしいしめ飾りを見つけた。私は思わずそれを手に取り値段をたずねていた。「800円です」こんなに小さいのにそれはちょっと高いなーとは思ったのだけれど、ご祝儀のつもりで店の主人に1000円札を手渡した。

 部屋に戻った私は、机のひきだしの中から両面テープを探し出して、買ったしめ飾りを玄関の扉に貼り付けた。そして、そう言えばしめ飾りの意味について正確なところを知らないな、と思って私はインターネットで調べてみた。

本来の宗教的意味は、各家庭が、正月に迎える年神を祀る依り代である。

 ということらしい。年神様か。穏やかで優しそうだ。私の家にやってくるのがそんな人なら良いな。いや、人ではなくて神様か。私にうるさいことを言って煩わせることなく、穏やかな時間だけをもたらしてくれるのなら大歓迎だ。神様バンザイ。

 私は玄関の扉に貼り付けてあるしめ飾りを思い浮かべつつ、少しだけお酒をのむことにした。良い気分だった。

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このエントリ内に書かれている事は大体に於いて事実と異なります。

退屈に呑まれる季節(前向きに)

 昨日のエントリを書いてから思ったのだけれど、もしかして僕は自分がそうしたいからボンヤリしているのじゃないだろうか。暖かい場所で日がな一日微睡んでいたい、とそういう事を望んでいるのではないだろうか。言ってみれば、冬眠欲みたいなものなのではないか。であるなら、それはもう仕方がない。いっその事、積極的にこの堕落を推進して行った方が良いのではないかとさえ思えてきた。

 因みに昨日のエントリに書いた、実家の縁側での過ごし方は結構理想的である。惜しむらくは炬燵でない方が好ましい。炬燵だとウトウトするには少々熱すぎて疲れてしまうのだ。使った事はないのだけれど火鉢はどうだろうか。寒いだろうか。毛布にくるまっていればそれなりに過ごせると思うのだが。それに外は雪が降り積もっていて欲しいし、身近には猫か犬が欲しい。そして、微睡むのに飽きた彼(猫か犬)がソワソワし始めるので障子を開けてやると、彼は勢い外に飛び出し、積もった雪にハマって右往左往する。そんな光景を眺めながらぬる燗の酒を啜りたい。

退屈に呑まれる季節

 やらなければならない事、やりたいと思っている事は山ほどあるのだが、何もする気になれないってほどではないにしろ、何だかぼんやりと過ごしてしまう時間が多い。おまけにいつも眠い。寝ても寝てもやはり眠い。鬱々とした気分という訳ではなく、ただ億劫で、いろいろな事が面倒に思えて来るのだ。こういうのが冬鬱というのだっけ。そう言えばこのところ休日も部屋に引き籠もっている事が多いから、日の光を浴びていないなぁ、とそんな事を考えながら寝転がっているのだ。

 ここ何年か暮れの帰省を止してしまっているが、帰った時に、茶の間で家族と喋ったりテレビを観たりするのに飽いてくると、大抵は縁側に何故か置かれている炬燵に深く潜り込んで、半ば横になったまま、雪見障子のガラス越しに見える冬枯れた庭をぼんやりと眺めて過ごしていた。冬は忙しいからそのせいなのか、寒さのせいで風邪が治りきっていないのか、いつもそうだった。
 家族がそんな状態の僕をどう思っていたのか、特に何か言われた事もないから解らないが、末の弟も帰省した時には寝てばかりいるから、同じように平生いつも疲れているからなのだろうと思っているようだ。しかし僕には特に疲れているという自覚はなく、強いて言えば、夏の暑さに疲れてしまうように、冬の寒さに疲れているというのはありそうな気がする。この頃では、暖かいものは全て正しく善きものであるような気さえしている。ただ、寒さはこれからなので、まださして飽いてはいないと思うのだが。

 それにしても、毎日寒くて眠い。

デトロイトのパン屋(再び)

 以前に書いた近所のパン屋が10月一杯で一旦店を閉め、先週末に新しい店舗で開業した。しかも何と僕の部屋から歩いて30秒ほどの場所に。

 店を閉める前に、店の中でレジの女性と客が話しているのを立ち聞きしたところに拠ると、新店舗はオーナーの自宅の一階を改築して、もっと手狭にやるつもりだとの事であった。喋っていたその女性は昔から居るので、僕はその人がオーナーなんだとばかり思っていたが、どうやら違うようだ。それも今日解明し、オーナーは60代くらいの女性で、そう言えば前の店舗で時折見かけていた。
 そして手狭にするという新しい店舗は、店内の面積で言えば以前よりも若干広く、以前のようにフツーの町のパン屋然とした感じではなく、漆喰風の壁材と木材を多用した、欧州の何処かの町に在りそうな、今で言えば小洒落た内外装の店である。確かにパンの種類は少し減った気がするが、僕が想像していたよりもずっと充実した品揃えだった。商売を小さくするものだとばかり思っていたが、もっと前向きな判断に拠る移転であったようだ。

 因みに、あの白いCDプレイヤーはレジテーブル横の木製の台の上に居座っていて、レイ・チャールズのCDが立てかけてあった。

軍服

 一昨日の夜「坂の上の雲」を観ながらつらつらと考えていた。軍服というものは機能が最優先であるはずなのに、昔のそれはどうしてああも美しく作られているのだろう。装飾も華美だ。昨夜初めてそう思った訳ではなく、以前からそれは感じていた。
 そして思い付いたのは、あの美しさはプロパガンダなのではないかという事。戦地へ赴く者が美しい装束を身に纏っていれば、それを観る者は彼ら(とそれを取り巻く状況)を良きものとして認識してしまうのではないだろうか。それは、美しい俳優を使って、優秀な撮影技術に拠って撮られた映像のように、人々を戦禍へと導くのではないだろうか。

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