僕が上京したての頃、当時は未だ東京で学生をしていた友人と夜の山手線に乗った時の話。
乗客の少ない車両に乗り込んだ僕等の耳に男の怒号が聞こえてきた。「おまえ中国人だろう!」「よお、おい!お前は中国人だろうってんだよ!」見れば薄汚れた身なりの老人が口角に泡を溜めながら怒鳴っていた。老人の目の前の座席にはステンカラーコートを身に纏った若い男が背筋を伸ばして座っていた。歳は20代の後半くらいか。見た目で彼が中国人であると判断出来る要素は何処にもない。それでも老人はしつこく繰り返す。泥酔しているのか、同じ言葉をただ大声で繰り返している。車内は凍り付いたように静まりかえっていて、罵倒されている男はじっと堪えていた。
やがて扉が閉まり、電車は動き出した。それでも止まない老人の追求に、僅かに男の表情が揺らいだかと思うと俄に立ち上がってこう言った。「そうだよ、俺は中国人だよ!だけどそれの何が悪い?俺は一生懸命働いて日本で暮らしてるんだ!中国人だからって何で馬鹿にされなきゃいけないんだよ!」本当に彼は中国人だった。僕はその事に驚いていた。それにしても老人は何故彼が中国人だと判ったのだろうか。男に怒鳴り返され、老人は言葉を失っていた。まさか言い返してくるとは思わなかったのだろう。態度が急に軟化し始める。そして次の駅に到着した時「電車降りて話そう」そう言って男は老人と共に電車を降りて行った。
車内の残った僕と友人は「あの人カッコええなあ」などと単純な感想を言い合っただけで済ましていたのだけれど、僕はその後度々その時の事を思い出していた。
一方は、年若く男前で、背も高ければその服装からして金も十分に稼いでいそうな中国人の青年は、見ず知らずの薄汚れた老人から、自分が中国人というだけの理由で罵倒されるのを何故我慢しなければならなかったのか。そしてもう一方は、どういう理由なのかは知らないし知りたくもないが、時代錯誤な差別意識に頼らなければ自分自身を保つ事が出来ない程の状況に何故陥ったのか。こんなにも悲しい場面にはそうそうお目にかかれないし、それ故いつまでも忘れる事が出来ない。
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