DOG ON THE BEACH

A season passes. A castle can be seen. Where is a soul without a wound ?

Month: July 2007

町田町蔵

art_20070728a 布袋寅泰、町田康の顔面を殴るの巻。一昨日から楽しませて貰っている。Yahoo トピックでこの記事を見つけてしまったものだから、これは祭りに違いないと2ちゃんねるの「芸能ニュース速報+」で該当スレッドを見つけて早速読み始めてしまった。だいたい発言は同じ様な事が繰り返されるのだが、たまに80年代のその界隈の裏話とか出てくるので、それ目当てで読んでいたのだ。しかしさすがに3スレッド目で飽きた。
 スレッド内では「何故、布袋は町田を殴るに至ったのか?」という話題と「殴られたからって被害届を出すのは元パンクス小説家としてどうか?」に二分されているが、僕個人としては前者はどうでもよい。後者に関しては少々気になるところなのだが、スレッド内でその命題に対する、すこぶるナイスなレスポンスを見つけた。

町田はパンクだから被害届け出したんだよ
ただのロックだったら出さなかっただろうな

 解りにくいとは思うが、パンクとは個人の気に入らない者(事)に対するアンチテーゼ、言ってみりゃただの悪意であるのだもの。社会的な正当性や倫理観などとは無縁の行為なのだ。自分が受けた圧力に対して、ねじくれた悪意で返すのがパンクの姿勢である。場合に拠ってはそれが喜びともなる。まあこれは僕の勝手な解釈だ。

 いつものように Wikipedia で検索すると「パンク・ロック」に関してはこんな大層な事が書かれている。特に思想的特徴の辺り。そしてそれが日本に伝わってくると、様相が違ってくるようで、思想として確立するまでには至っていない。しかしながら、中には真面目に考え、その定義を求めようとする人も居たりする訳である。

 時々思うのは、文化的な奔流の発端は思想なんかじゃないと思うのだ。思想とはあくまで、後々になってから、或る現象を解りやすく括る為の方便だと思っている。そりゃまあ、社会の大きな流れとなるには共感を覚え、賛同する人々の感情を汲み取るような何かしら原義が在るとは思うのだけれど、個人レベルの話と、共同体レベルの話であれば、その中心となるものが全然別個のものだと思うのである。

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 話がやたらと大きくなってきたので元に戻す。

 高校3年の頃、Uちゃんというパンクスの友人が居た。3年になるまでお互いにその存在を知らなかったのだが、デッサンを習っていた教室で一緒になり仲良くなったのだ。それから僕は、彼の影響で時々アマチュア・バンドが出演するギクに顔を出すようになった。僕がパンクと実際に触れ合っていたのはその頃だけだ。彼方此方で色々なものを見聞きしながらも、相変わらずそれに踏み込む事も出来ず、傍観するような態度で眺めていた。
 その頃のUちゃんとの会話の中で、こんなエピソードを聞いた。或る時Uちゃんは自宅でとあるバンド(聞いたはずだけど忘れた)のテープを聴いていたところ、彼の妹がそこに現れ、やたらと横柄な態度で「それ、ダビングしてよ。」と言い放たれたらしい。その態度にムカついた彼は言われた通りにダビングするフリをして、実はボリュームを0に下げて録音して渡したとか。Uちゃんはそんな事を話しながらウッシッシッシと笑っていた。妹の傲慢さに悪意で報復する兄。僕はその時、内心は「なんて性格の悪い奴なんだ。」と思っていたのだが、今現在となってもそのエピソードを楽しく思い出す。

 僕がパンクに関して知り得たのはUちゃんから教えられた事ばかりだ。つまりは彼のフィルターを通しての事なので、どう考えても一般的な認識であるはずはないのだけれど、その出で立ちや行動を介して、他人から指さされる事で己の存在を確認するという、そういう精神性を持った人間をパンクスと呼ぶものだと僕は思っている。だからこそ、上に引用した2ちゃんねるでのレスポンスにひどく共感を覚えたのである。

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 町田町蔵。数々の逸話を残すパンクスのアイドルであった。「つるつるの壺」の文庫本に掲載された中島らもの解説や、「へらへらぼっちゃん」の文庫本に掲載された大槻ケンヂの解説や、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(当時は有頂天のケラ)のブログ「日々是嫌日」の記事を読めば、その一端は知れると思う。とか偉そうに書いているが、僕だってそれ以外には知らない。
 それと、大槻ケンヂの解説の中にも出てきた、日比谷野音でのライヴ「天国注射の昼」の映像の一部が Youtube にアップされていた。ケラが書いた記事にあるように見事に前歯が折られている。気持ち悪い癖に凄まじく格好良い。

蛮行伝 その二

 暫く前の話。恋人同士なのか夫婦なのか判らないが、見慣れない顔。上気したような表情で男が女の肩を抱く。肩を抱くとは言っても、例えば年老いた白人の夫婦が愛情と労りを持ってするような雰囲気ではない。飽くまで性的快楽を求めるような手や指の動きである。昨夜のセックスがそんなにも良かったのか。それとも玄関を出る寸前までヤっていたのだろうか。射精後の男がそういつまでもそんな状態でいられるとは思えないので、恐らく時間切れで中途で止めてきたのだろう。

 女が許せば、きっとその場でヤり始めるのではないかと考えながら眺めていたら、女は肩に乗せられた男の手を払いのけた。惚けているのは男の方だけらしい。興奮で脳味噌が溶けているのだろう、男はその後もしつこく肩を抱こうとしたり腰に手を回したりしていた。
 早朝の満員電車の中では、殆どの人々は内心イラつきながらも吊革に捕まっている。そんな中で欲望に顔を歪ませている人間が人目を憚らずに行為に及んでいれば、そりゃあもう不適切を遙かに超えて不快である。このまま男が諦めずに行為を続けた場合、女がキレるのが先か、それとも他の乗客がキレるのが先か一体どっちだろうな、などと考えている内に電車は僕が降りるべき駅に到着した。

 因みに僕は、人目の在る場所で性的な行為をするのが嫌いである。手を握ったり腕を組んだりするのが限界だ。僕の方からはそれ以上は絶対にしないし、もし相手がそういう事をし始めたら怒りすら覚える。それとは逆に、二人きりの空間でなら何をしようが大抵の事は平気なのだが。

業火

 社会人となって十数年、職場で色々な人と接してきた。時々思うのは、同じ共同体内で上司や先輩の悪い部分を、それはもう見事に後輩が受け継いでいるのは何故だろうという事。自分が同じ事をされて嫌だったろうに、何故かしらそっくりそのままの事を目下の人間に対して遂行しているのである。不思議だ。その昔に何処かで読んだ軍隊を例に出した加虐のメカニズムを思い出す。

 僕自身はそんな事をしているつもりはさらさらないのだが、気付いていないだけで実は同じような事をしているのかも知れない。そしてこれは何も仕事上の共同体だけの話ではなく、勿論家族という共同体の中でも見受けられると思う。現代の東京などでは有り得ない父権の強い家庭であるとか、男尊女卑の影が色濃く残っている家庭だとか、そんな家庭に育った人間は現代社会に於いてもその名残りを引きずっている。かく言う僕は明らかにそういう価値観の元に育っている。
 思春期を迎えた頃から僕はそういう価値観が嫌いであったので、出来るだけそれに逆らうような形で生活してきた。でも実際のところ、他人の目に僕がどう映っているのかは判らない。たまに自分の行動した事を後から思い返せば、父のかつての行動が思い起こされたりするので、何かしらを引き継いでいるとは思う。業を引き継ぐ、もしくは継承するというのはこういう事だろうか。

 少し話は逸れたが、こんな事を考えていると、人の世というものは日々ロクでもない方向に進んでいるような気がしてならないのだけれど、想像するよりも多少はまともな社会生活が営まれているように見えるという事は、業の継承とは別な流れが引き継がれているのだろうか。

蛮行伝

 僕は平日はいつも同じ時刻の電車に乗っている。通勤快速も止まる駅なのにわざわざ普通電車に乗っている。通勤快速は基本的に鮨詰めの状態なので乗りたくないし、普通電車であってもいつも僕が乗っている時刻の前後の電車は人が多い。なのでその時刻の電車に乗らなければどうあっても嫌な目に遭うのである。
 そんな風にして何年もの間同じ電車に乗っていると、何年も前から見かける同じ顔というのも存在する。勿論人は動くものだし、何年かすればそこに居合わせる人々はすっかり入れ替わるのだけれど、1・2年は居たりするのだ。毎朝同じようなメンバーに囲まれて電車に揺られていれば、自然と「あ、この人は良い匂いがするからいつも隣に立とうかなー。」とか「あ、こいつは挙動不審だから嫌な目に遭わないように出来るだけ離れて立つ事にしよう。」などと思ってくるものである。

 例えば、僕と同年代であろう女性というか女が次の駅でいつも同じ車両に乗ってくるのだが、数年前の事、揺れる車両によろめいてその女の足を踏んだ事があった。その女は非難がましい目で僕を睨み付けながら「いったーい!」と殊更にデカい声で叫びやがった、その余りの反応に僕は素でムカついて「すみません。」と小声で謝った後は無視していた。
 その次の日から現在まで同じ車両に乗り合わせるのだが、時々見かける彼女は何というか自分の欲求のみに正直な人で、空いた座席やスペースを見つけるや否や、既に彼女の網膜にはそれしか写っていないらしく、他の乗客を蹴散らすような勢いで突進する。そして無事に領土を確保すると何事もなかったように鞄から本を取り出し読み始めるのである。しかしまあ、そんな事をするオバハンはよく居るので、大して気にしていなかった。
 しかし彼女の場合はそれだけではなかった。普段は本を読んでいるがたまにイヤフォンで音楽を聴いているのを見かける。ジャカスカと音漏れしていなければ普通の行為だ。何ら問題はない。ただ彼女は違った。一体何の音楽を聴いているのかなんて知りたくもないが、なんと彼女はヘッドバンギングを始めたのである。ラッシュ時の電車内で。固く目を閉じ、唇は真一文字で、長い髪の毛を振り乱しながら一心不乱に、ガンッガンに首を縦に振っていた。もうそうなると迷惑だとかそういう問題ではない。怖いのだ、その存在が。何だか見てはいけないものを見たような気もしてくる。

 明日も同じ車両に彼女が乗ってくるかと思うとドキドキする。何というか、彼女は余りにも不適切だ。

アイデン&ティティ / 田口トモロヲ

 ずいぶん前に誰かから薦められていたのに、何やかんやで先延ばしにしていた。何やかんやと書いたが、実は僕の場合は誰かに何か薦められたとしても直ぐに観たり読んだり聴いたりする事は殆どなく、タイトルだけは記憶に留めておいて、何かの際にふと興味が沸いてようやく手にしてみるという事が多い。そういうものは未だたくさん在る。つれないと言われればそうなのだけれど、レンタル屋や本屋やCD屋で目にしても何となく「未だその時期ではない」と思って流してしまう事はしょっちゅうである。何かと出会うには適切なタイミングが在ると、僕は昔から信じている。

 さて、感想を記す。冒頭の、みうらじゅんを始めとする懐かしい「イカすバンド天国」の面々のインタビュー映像の次に、ギターのハーモニクスとブルースハープのメロディーと共に映し出されるJR高円寺駅の光景を目にした瞬間「あー、この映画はきっと好きだな。」と思った。それが何故なのかは説明出来ないけれど、ただそう思ったのだ。
 夜、何となしに観始めたので、僕はイトーヨーカドーのしょうゆヌードル(結構旨い)を食べながら画面を眺めていた。しかし気がつけば僕は涙を流しており、途中からは鼻水を啜るので精一杯で途中で食べるを止めてしまった。物語の内容は省く。そんな事書いても仕方がない。
 この映画の中で僕が大好きな場面が二つ在る。一つは、銀杏BOYZの峯田和伸扮する中島が、麻生久美子扮する彼女の部屋から、打ちひしがれて自転車を押しながら夜道を帰っていくところだ。道端で中島が部屋から出てくるのを待っていたディラン(劇中にはボブ・ディランが中島の見る幻影として登場する)が、俯きながら自転車を押す中島にそっと寄り添うように後ろをついていくという場面。
 そうなのだ。かつて僕が敬愛していたロック・ミュージシャンが歌った言葉や、インタビューか何かで語った言葉を、僕自身に何か起きた時や悩んでいる時なんかに口の中で復唱していた。信じるに値する言葉がもしあるのなら、それら以外には無いと思って毎日を生きていた。ロック・ミュージックとは音楽であると同時に文学でもあるような気がする。ひたすらに崇高なる美を求めるものではなく、収拾の付かない泥深泥の感情を拾い上げてくれるような、そんな音楽であるように思える。

 そして二つめは、中島と彼女がアパートの窓から少し身を乗り出すように、雪降る夜を眺めている場面。いーなあ、と思いながら観ていた。言ってみれば四畳半フォーク的な場面だが、好きな人と肩を並べて雪を眺めるというのは、とても美しい時間であると思うのだ。少しニュアンスは違うけれど、みうらじゅん原作の漫画にも同じ場面が隅の方にたった一コマ描かれている。僕の勝手な解釈だが、田口トモロヲもきっとその一コマが大好きであの場面を撮ったんだろうなあ。

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